『鎌倉時代編2 北条氏の台頭と承久の乱』

【1】 先土器時代 (P.1)(P.37〜38)

 ここは3本立てである。ノートは初代北条時政から6代長時までを、執権ごとの時系列でまとめてあり、「1 北条氏の台頭」で、他氏排斥と承久の乱を、「2 執権政治の展開」で組織の確立と貞永式目を記している。
 しかしポイントとなるのは、「他氏排斥と組織の確立」と「貞永式目関係」と「承久の乱関係」の3本である。そのためここではノートの順番とは異なる形で解説する。見開きのページ全体(P.37〜38)でおさえて欲しい。
 なお、鎌倉幕府の政治体制の推移は、こちらで確認してほしい→「入試問題で確認するテーマ史 鎌倉幕府の政治体制の推移

1 北条氏の台頭
(1)他氏排斥
 2代北条義時和田義盛。5代北条時頼→「宝治合戦」で三浦泰村。9代北条貞時→「霜月騒動」で安達泰盛が滅亡した。それ以外の有力御家人の滅亡(梶原景時、比企能員、畠山重忠)は、全て初代北条時政の時。

(2)組織の確立
@「引付衆(評定衆の下にあり、裁判の迅速・公正化のために置かれた。)=北条時頼」以外は、連署(=執権の補佐役、北条時房)も評定衆も貞永式目も3代北条泰時の時。
A将軍=2代源頼家→3代源実朝→4代藤原(九条)頼経摂家将軍←北条泰時)→5代藤原頼嗣→6代宗尊親王皇族将軍北条時頼
発展『鎌倉時代の将軍って何ですか?』ー東大入試問題に学ぶ1ー(1997年度第2問)』へ

(3)貞永式目(御成敗式目)
@「頼朝以来の先例と、道理と呼ばれた武士社会の慣習・道徳に基づく」は丸暗記せよ!
A武家独自の法であり、御家人社会にのみ適用され、律令・本所法の存在は否定しなかったが、次第に効力を持つ範囲が拡大していった。(御家人社会とは幕府の支配地域を指し、鎌倉や御家人領に住む庶民にも適用された。)
B新補地頭の補任によって新たに生じた現地の荘官・農民や荘園領主との間の紛争や、御家人同士の紛争を解決するための、公平な裁判の基準を明示しようとした。
C最初の整った武家法典であり、1232年に51箇条(17の倍数!)で制定され、その後必要に応じて式目追加で補足した。

 尚、守護の職掌(大犯三箇条)を記した第三条と、六波羅探題だった北条重時にあてた消息文(手紙)の史料は、確認しておくこと。
発展 『御成敗式目の制定と北条泰時の意図』ー東大入試問題に学ぶ8ー(2005年度第2問)へ
エピソード「真のダンディズム」へ)。 

承久の乱
(1)展開
@後鳥羽上皇1221年/西面の武士(白河上皇の北面の武士との正誤問題が頻出)/その時の執権は北条義時
A義時追討の院宣→北条政子(尼将軍)の檄。(エピソード「素手で10万の軍勢を破ることができた可能性-承久の乱-」へ
B1カ月で終わる(「1年間戦乱が続いた」という正誤問題あり×) 。3上皇の配流(後鳥羽は隠岐は絶対。当地で死去/順徳上皇→佐渡/土御門上皇→土佐)。仲恭天皇→後堀河天皇は私大で問われることがある。 
C京都守護六波羅探題
D公武所領3000余箇所を没収→新補地頭を設置新補率法(反別升の加徴米兵粮米との正誤問題頻出)と「11町に1町」の免田。そして山野海河からの収益は領主と折半)。ただし、適用されたのは慣例がないもののみ。「全ての荘園・公領に適用された」という文章は×
E大田文って何だ?承久の乱後の幕府が作成した土地台帳。現地で実地調査にあたったのが国衙の役人であった(義時が国衙に命じて作成させた)ことからも、乱後の幕府権力の拡大が分かる。 大田文には一国ごとの田畠の面積、公領・荘園の区別、荘園領主や地頭の名などが記載されていた。これをもとに幕府は地頭の任命や御家人への軍役・番役負担を割り当てた。

<発展的な内容:兵粮米と加徴米>
 「1185年に設置された地頭(本補地頭)は反別5升の兵粮米で、1221年の承久の乱後に新たに補任された新補地頭は反別5升の加徴米。」

 センターレベルならこの丸暗記で何とかなると思う。しかし、この兵粮米と加徴米がよく受験生を混乱させる。
 『鎌倉時代編1 鎌倉幕府の成立』の守護・地頭の項でも記したが、兵粮米は「義経・行家追討」が名目の軍事兵糧の位置付けであり、国司・荘園領主の反発で翌年には撤回されている。では、反別5升の加徴米の徴収が認められた新補地頭に対して、兵粮米もとれなくなった本補地頭には収入がないのではないかと疑問を持つようである。
 
 基本的には、加徴米とは平安時代から下司など荘官の得分として徴収を認められてきた反別3升もしくは5升の米である。これが鎌倉時代の地頭にも受け継がれたのであり、新補地頭の設置に際して幕府が新設した制度ではない。
 本領安堵として本補地頭に任命された地頭には、旧来からの得分があった(もしくは従来の慣習を引き継いだ荘官としての得分があった)のである。そのため、1185年に兵粮米の徴収が認められると、従来の得分(加徴米)と兵粮米の2重徴収が起こることになり、幕府はこれを禁止している。
 
 それに対して、新補地頭が任命された荘園・公領にそのような取り決めがなかった場合(もしくはあってもない等しい場合)に限り、得分の基準として新補率法を定めたのである。その一つが「11町に1町の給田を除く10町の土地に付き、1反当たり5升の加徴米」の徴収であった。のちにはこれを明確にするために「正規の税として集めた官物から加徴米は徴収するのだ。」と定めたが、今度はこれに本補地頭が「正規の官物から加徴米を徴収して良いのだ。」と便乗するようになり、幕府は本補地頭が新補率法に基づいて加徴米を徴収することをたびたび禁止することとなった。 


(2)歴史的意義→次の2点と言える
@幕府の勝利により、幕府権力は不動のものとなり、皇位継承や朝廷の政治にも干渉するようになった。簡単に言うと、公武二元支配であることには変わりはなかったが、公家優位から、武家優位の公武二元支配となったと言える。
A新補地頭の設置により、畿内・西国の荘園・公領にも幕府の力が広くおよぶようになり、六波羅探題を中心とする幕府の西国支配体制が成立した。

なお、承久の乱と貞永式目は必ず史料を確認しておくこと。

<発展的な内容:慈円と愚管抄>
 承久の乱の前年、源頼朝と親交があり、『玉葉』を著した関白九条兼実の弟で、天台座主であった慈円が、乱の前に後鳥羽上皇を諫める目的で『愚管抄』を著している
 (『鎌倉時代編5 鎌倉文化1(宗教と学問・文学)』参照

 この慈円と『愚管抄』について、2013年度のセンター試験に「
後鳥羽上皇による討幕計画が進むなか、天皇家出身の慈円はそれを諫める書物を著した。」という選択肢(誤文)があった。
 一見、慈円が摂関家(九条家)か天皇家出身かだけで判断させる問題で、細かいように見える。しかし、これは当時の朝幕関係という背景が分かっていれば解けた問題でもあった。

 当時鎌倉には、4代将軍となる九条(藤原)頼経がすでに鎌倉にいたのである。
 3代将軍源実朝が暗殺された後、幕府は有力御家人の総意の上に皇族を将軍に迎えようとしたが、後鳥羽上皇に拒否される。そのため源頼朝と親交のあった九条兼実の曾孫でもあり、かつ頼朝の実の妹の曾孫でもあった、当時2歳の頼経が鎌倉に迎え入れられたのである。九条頼経は、九条兼実の曾孫であり、慈円にとっては一族であるとともに、頼朝の血も引いていたのである。

 慈円は天台座主であるとともに、政治的には兄兼実の孫である九条道家の後見人を務めていた。九条頼経はその道家の子になる。慈円は頼経が将軍として鎌倉に赴くことを、公武協調の理想ととらえて期待を寄せていた。だからこそ、その朝幕関係の理想を武力で壊そうとする後鳥羽上皇の挙兵に反対したのである。

 この承久の乱前後の朝幕関係の推移の中にこの問題を位置付ければ、これは単なる枝葉の知識問題ではなく、歴史の本質に関わる良問だと言える。受験生には難問ではあったかもしれないが、これは「慈円が承久の乱を諫める目的で『愚管抄』を書いた。」という表面的な事象だけを覚えるのではなく、「出来事の本質をつかみなさい」という出題者のメッセージのように、ぼくには感じられた。

 なお、朝幕の協調を願った慈円の思惑とは裏腹に、承久の乱によってこれまた兄兼実の曾孫であった仲恭天皇まで廃されてしまう。これに対して慈円は、幕府を非難するとともに仲恭帝復位を願う願文を納めている。

 

(2003.11.30追記)
(2006.5.3更新)

(2013.1.13 大田文の解説に追記。発展的な内容を加筆)
(2013.2.10 愚管抄に関する発展的な内容を加筆)

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