発展 『御成敗式目の制定と北条泰時の意図』

    ー東大入試問題に学ぶ 8ー
 (2005年度第2問)


 「さてこの式目をつくられ候ことは、なにを本説として注し載せらるるの由、人さだめて謗難を加事候か。まことにさせる本文にすがりたる事候わねども、ただだうりのおすところを記され候ものなり。・・・

 この史料を見たことがない受験生はいないであろう。北条泰時が弟で、この時六波羅探題であった北条重時にあてた消息文である。すべての教科書に載っており、「式目制定の趣旨」と記されている。
 そしてこの史料を用いて、授業では次のように言われるのではないか。

@「頼朝以来の先例と、道理と呼ばれた武士社会の慣習・道徳に基づく」は丸暗記せよ!
A武家独自の法であり、御家人社会にのみ適用され、律令・本所法の存在は否定しなかったが、次第に効力を持つ範囲が拡大していった。(御家人社会とは幕府の支配地域を指し、鎌倉や御家人領に住む庶民にも適用された。)
B新補地頭の補任によって新たに生じた現地の荘官・農民や荘園領主との間の紛争や、御家人同士の紛争を解決するための、公平な裁判の基準を明示しようとした。
C最初の整った武家法典であり、1232年に51箇条(17の倍数!)で制定され、その後必要に応じて式目追加で補足した。
(以上はぼくの通史編「鎌倉時代編2 北条氏の台頭と承久の乱」からそのままを写している。) 

 しかし、この誰もが知っている史料をそのまま、しかも御丁寧に現代文に訳して出題したのが、東京大学の2005年度の第2問である。


<東京大学2005年度第2問>

 次の文章は、鎌倉幕府執権北条泰時が、弟の六波羅探題重時に宛てて書き送った書状の一節(現代語訳)である。これを読んで、下記の設問A・Bに答えなさい。

 この式目を作るにあたっては、何を本説(1)として注し載せたのかと、人々がさだめて非難を加えることもありましょう。まことに、これといった本文(2)に依拠したということもありませんが、ただ道理の指し示すところを記したものです。(中略)あらかじめ御成敗のありかたを定めて、人の身分の高下にかかわらず、偏りなく裁定されるように、子細を記録しておいたものです。この状は、法令(3)の教えと異なるところも少々ありますが、(中略)もっぱら武家の人々へのはからいのためばかりのものです。これによって、京都の御沙汰や律令の掟は、少しも改まるべきものではありません。およそ、法令の教えは尊いものですが、武家の人々や民間の人々には、それをうかがい知っている者など、百人千人のうちに一人二人もおりません。(中略)京都の人々が非難を加えることがありましたなら、こうした趣旨を心得た上で、応答してください。

 (注) (1)本説、(2)本文:典拠とすべき典籍ないし文章
     (3)法令:律令ないし公家法

設問
A 「この式目」を制定した意図について、この書状から読みとれることを、2行以内で述べなさい。
B 泰時はなぜこうした書状を書き送ったのか。当時の朝廷と幕府の関係をふまえて、4行以内で説明しなさい。


 前回(東大の入試問題に学ぶ7)の「兵役と戸籍との関係」とは逆に、おそらく試験会場でこの問題を目にした受験生のほとんどが、「これは書ける!」と思ったのではないか。

 しかし何と書くのか。設問Aは
頼朝以来の先例と武士社会の慣習・道徳である道理に基づいて独自の武家法を定め、御家人に対し公平な裁判の基準を明示するため。」(60字)
だろうか。これでも点はあるだろう。しかし問題文は「この書状から読みとれること」であり、我々が当たり前のように丸暗記している
「頼朝以来の先例」はどこにも書かれていないのである。

 また設問Bは
式目は御家人社会にのみ適用されるのであって、朝廷の政治や公家法は少しも変更されないということを朝廷側に説明するため。
だろうか。しかしそれは
あくまで説明の仕方であって目的ではない

 「当時の朝廷と幕府の関係」のもと、執権北条泰時が図ろうとしたのは何だったのか。
 
 
東大の問題は、教科書に書いてないことはでない。そして与えられた資料に過不足がなく、資料をきちんと読み取る力があれば、必ず答えを導ける。

 さらに今回の史料は、中学校のテキストにも載っているほど、誰もが知っている。

 しかし

 
歴史の本質を見抜く力がないと解けない!

 「悔しいけどさすが東大」と今回も思った。


 <考え方>
 設問Aについて

 これは「この書状から読みとれること」であり、
東大チャートを作成した。そちらを見て欲しい。

 東大チャート2005年度 『東京大学 第2問』の設問Aー 御成敗式目制定の意図ー


 設問Bについて。

 求められているのは、

ア 泰時が書状を送った理由を書く
イ 当時の朝廷と幕府の関係を踏まえて書く
ウ 120字で書く

ことである。

 資料文にも、「もっぱら武家の人々へのはからいのためばかりのものです。これによって、京都の御沙汰や律令の掟は、少しも改まるべきものではありません。(中略)京都の人々が非難を加えることがありましたなら、こうした趣旨を心得た上で、応答してください。」とあるように、先述の「式目は御家人社会にのみ適用されるのであって、朝廷の政治や公家法は少しも変更されないということを朝廷側に説明するため。」が、ポイントになることは疑いない。

つまり

泰時は、「式目の制定が朝廷の政治や公家法に変更をもたらすものではないことを朝廷側に示す」ことで、何を図ろうとしていたか

を書くのである。それを導くものが、「当時の朝廷と幕府の関係」である。ここは入試問題解説の約束どおり、山川の教科書をもとにまとめたい。当時の朝幕関係について山川の『「詳説日本史』には、次のように記されている。

 
(承久の)乱後、幕府は皇位の継承に介入するとともに、京都には六波羅探題をおいて、朝廷を監視し、京都の内外の警備、および西国の統轄にあたらせた。また、上皇方についた貴族や武士の所領3000余カ所を没収し、戦功のあった御家人らをその地の地頭に任命した。
 これによって畿内・西国の荘園・公領にも幕府の力が広くおよぶようになった。朝廷では引き続き院政がおこなわれたが、この乱によって、朝廷と幕府との二元的支配の状況は大きく変わり、幕府が優位に立って、皇位の継承や朝廷の政治にも干渉するようになった。


 これで答案は組み立てられるのではないか。

 承久の乱後、幕府は朝廷より優位に立ち、皇位の継承や朝廷の政治にも干渉するようになり、畿内・西国にも広く力をおよぼすようになった。その状況の中で北条泰時は[ A ]ために、式目の制定が朝廷の政治や公家法に変更をもたらすものではないことを示して、朝廷側の[ B ]とした。

 この書状でとにかく弟に朝廷側からの非難に対して、「朝廷の政治や公家法は少しも変更されない」ことを強調しなさいと指示している。ここからも、
朝廷側が幕府による朝廷の政治への介入がより強まることを警戒していることがうかがえる。それに対して泰時は、朝幕間の対立の激化を避けるため、朝廷側の警戒を解こうとしたのである。

 空欄[A」、[B]は、「朝幕間の対立を防ぐ(朝幕間の協調を図る)」と「朝廷側の警戒と解く」がそれぞれ入ればよい。(順番はどちらが先でも意味は通る。)

 以上を120字でまとめればよい。 

 

<野澤の解答例>

承久の乱後、幕府は朝廷より優位に立ち、皇位継承や朝廷の政治にも干渉するようになり、西国にも力を伸ばした。その中で北条泰時は朝幕間の協調を図るために、式目の制定が朝廷の政治や公家法に変更をもたらさないことを示して、朝廷側の警戒を解こうとした。(120字)

 
2011.10.30


窓・発展目次へ戻る
東大チャート2005年度 『東京大学 第2問』の設問Aー 御成敗式目制定の意図ー
東京大学入試問題解説TOP
トップページへ戻る