明日が受験で、最後に日本史は何を復習しようか迷ったら、「鎌倉文化」と「江戸時代の三大改革」とやれ、とぼくなら言う。この2つが出題頻度の1、2位と言っても過言ではないと思う。
(ノートP.43~44)
1 鎌倉仏教
まずはいわゆる「鎌倉新仏教」とよばれる6つの宗派から。
出題パターンは、大きく2つに分けられる。①「浄土教系=法然→親鸞→一遍」:「禅宗=栄西→道元」:「日蓮」という系列順のものと、②「法然・栄西」→「親鸞・道元」→「日蓮・一遍」という活躍した時代ごとに、棒グラフのような形で出題しているものである。
ここでは②のパターンで時代ごとにまとめてある。
開祖6人の「主張と主著と寺院」は、アブラムシのように地道に覚えるしかない。共通しているのは選択(1つ選んで)・専修(それだけが良くて)・易行(簡単)である。
[1] 治承・寿永の乱(源平争乱)期=古代から中世へ | ||
①法然=浄土宗(1175)→専修念仏(知恩院/京都) 主著:「選択本願念仏集」 ↑九条兼実の求めで著された。 但し、史料でよく出る「南無阿弥陀仏と申て、疑いなく往生スルゾと思とりテ、申外ニハ子さい候ハズ。・・・只一かうに念仏すべし。」の出典は「一枚起請文」である。 |
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②栄西=臨済宗(1191)→公案(建仁寺/京都) 主著:「興禅護国論」「喫茶養生記」 ※公案とは、悟りに至るために師僧からだされるテキスト。アニメ「一休さん」を見たことがある人は、「そもさん」「せっぱ」(「問題を出すぞ」「受けましょう」)に聞き覚えがあると思う。室町文化で頻出する如拙の「瓢鮎図」は、公案の題材である。 難:公案によって悟りを得る禅を看話禅という。 |
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↑はどちらも知恩院(京都)の三門。特に右側の写真は気に入っている。 「専修念仏」という感じがすると思いませんか? ←は建仁寺(京都) |
[2] 承久の乱期=公家優位から武家優位へ | ||
③親鸞=浄土真宗(1224)→悪人正機説、絶対他力 主著:「教行信証」 ※「善人なほもって往生を遂ぐ、況んや悪人をや。」で有名な「歎異抄」は弟子の唯円の著 (法然の弟子。法然とともに弾圧されて流刑になるとき、「たとえ、法然聖人にだまされて地獄に落ちることになっても悔いはない。」と言った話は有名) |
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←西本願寺(京都) 写真は唐門 親鸞の中心寺院と問われれば本願寺である。 |
④道元=曹洞宗(1227)→只管打坐 主著:「正法眼蔵」/弟子の懐奘の著が「正法眼蔵随聞記」 ※道元は坐禅そのものが悟りだとしており、臨済宗の公案のようなテキストはない。「ただひたすら坐禅する」これを只管打坐という。 難:曹洞宗では仏法の極意は、文字や言葉を越えて、師から弟子へ以心伝心で伝えられるとする。これを不立文字という。 |
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←永平寺(写真は勅使門) (越前国:福井県) この写真だけが空が映っていない。福井県の山中にあり、曹洞宗が権力から距離を置いたことが分かる。 |
[3] 元寇期=幕末の社会の動乱期 | ||
④日蓮=日蓮宗(法華宗)(1253)→題目。法華至上主義 :「立正安国論」「開目抄」 ↑「立正安国論」は執権北条時頼に呈上された。 「念仏無限禅天魔真言亡国律国賊」という言葉(四箇格言)に代表される日蓮の強烈な他宗排撃は有名 日蓮宗は辻説法で折伏(しゃくぷく)することによって布教 |
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←身延山久遠寺(山梨) とにかく桜の名所である。 |
⑤一遍(遊行上人)=時宗(1276)→踊念仏 ※一遍は死の直前に著書を焼き捨てたとされ、著作が残っていない。代わり(?)に円伊が描いた『一遍上人絵伝』が有名 難:一遍に従った人々を時衆という。 難:念仏の札をくばることを賦算という。 |
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←清浄光寺(神奈川県) |
それぞれの特徴は、上の表で確認してもらうとして、ここでは受験、特に正誤問題で危なそうな所だけ挙げておく。
(1)浄土真宗のバイブル的存在の『歎異抄』は弟子の唯円の作。親鸞自身の著書は『教行信証』
(2)臨済宗は公案というテキストあり⇔曹洞宗は只管打坐で、「ただひたすら打ち座れ」
(3)臨済宗は権力に接近して発展し、京都・鎌倉に大寺院→栄西=建仁寺(京都)
蘭溪道隆=建長寺(鎌倉)←北条時頼の招き/無学祖元=円覚寺(鎌倉)←北条時宗の招き
⇔曹洞宗は権力を嫌って越前の山の中に永平寺
(4)浄土宗・浄土真宗・時宗は念仏(南無阿弥陀仏)⇔日蓮宗は題目(南無妙法蓮華経)
語句を入れ替えられる正誤問題がでたら、意味を考えたら分かる。「南無」は敬意、尊敬、崇敬をあらわす感嘆詞だから、「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀仏を尊敬します。」と言う意味だし、「南無妙法蓮華経」は「法華経を崇敬します。」という意味になる。
(5)「法然→専修念仏」⇔「親鸞→悪人正機説」⇔「一遍→踊念仏」
ちなみに『一遍上人絵伝』の中では、片瀬の浜の踊念仏の場面などが有名だが、あの舞台の上の一番外側で踊っていたのは、若い尼さんだった。「えっ?、下から見たら※※※が見えるやん!」そういうことです。ある貴族の日記にも「何と、はしたない」と書いてあるが、そういうお前も見に行ってるやろ!
続いて「旧仏教側」である。
「華厳の高弁(明恵)、高山寺→『摧邪輪』(法然批判)」と「律宗の叡尊→忍性の師弟コンビ」がメイン。忍性は北山十八間戸(ハンセン病)で判断」が頻出。
高弁はセンター試験で明恵と出題され、今では明恵で覚えた方がよいと思う。「華厳の高弁、高山寺」は頭文字が「KKK」でリズムがよく、覚えやすいのだが仕方がない。(エピソード「あるべきようは-偉大なる実存主義の思想家 明恵-」へ)
貞慶は法相宗で一問一答。(エピソード「鎌倉仏教とハンセン病」へ)
ただし、この「新仏教」「旧仏教」という言い方は、明治になってから使いはじめられたものである。実際、浄土真宗などは、応仁の乱のころに本願寺に蓮如が出てブレークしたのであって、それまでは鳴かず飛ばずであった。
平安時代から中世を通じて圧倒的に力を持っていたのは、真言・天台であった。だからこそ織田信長が延暦寺を焼き討ちにしたのである。
ここで確認しておきたいことがある。
知っての通り、最初に念仏を主張したのは法然ではない。10世紀中頃の空也であり、源信によって発展した。しかし空也は藤原実頼らTOP貴族との親交も深く、非難も迫害もされてはいない。この違いはどこにあるのか。
確かに空也は念仏を唱えたが、それ以外の仏教の教理や修行を否定してはいない。それに対して法然は「念仏以外は無意味」だといったのである。つまり旧仏教側の活動を全否定したことになる。ここに大きな違いがある。華厳宗の高弁(明恵)は著書『摧邪輪』で激しく法然を批判したが、彼の立場を考えれば当然と言える。
2 学問
(1)「有職故実とは何か」と問われて「朝廷の儀式・先例の研究」と書けなければならないが、中でも「順徳上皇=禁秘抄」は基本。後鳥羽上皇の『世俗浅深秘抄』と室町文化の『職源抄』『建武年中行事』とで4択問題もあった。
(2)教育の「北条実時=金沢文庫」は超大物!「武蔵国称名寺の境内」まで出ることがある。正誤問題の相方は室町文化の「上杉憲実=足利学校」
(3)神道は伊勢神道の度会家行『類聚神祇本源』だが、要は反本地垂迹説と本地垂迹説との正誤問題である。「日本の神様が本(神本)でインドの仏様は仮(仏迹)」ですよ。
このほか、卜部兼方『釈日本紀』、仙覚『万葉集註釈』はセンターではでない。私立大用である。
3 文学
古典研究、和歌は作品と作者・編者を、一問一答で覚えるしかない。八代集の最後である『新古今和歌集』の編者は、藤原定家だけでなく藤原家隆までセンターテストで問われている。「無住=沙石集」がちょっと流行りか。
『金槐和歌集』(源実朝)は字に注意。『山家集』(西行)もできなければならないだろう。
金沢文庫と並ぶ超大物が、「慈円=愚管抄」である。
慈円は、頼朝と親交のあった『玉葉』の著者、関白九条兼実の弟であり、天台座主(延暦寺のトップ)であった。後鳥羽上皇に承久の乱をいさめる目的で書かれており、乱直前に成立、後に加筆した。「愚管抄は何に基づいて書かれているか」という設問も見られ、「道理と末法思想に基づく」と答えられなければならない。ここでいう道理とは、「歴史を貫く原理」であり、今一般に用いられる、物事の理屈という意味ととらえてもよい。貞永式目の基も「先例と道理(ここでは武士社会の慣習・道徳)」であるが、区別しておこう。(鎌倉時代編2 北条氏の台頭と承久の乱<発展的な内容:慈円と愚管抄>参照)
「幕府の公式記録→吾妻鏡」は、例の承久の乱の際の「北条政子の檄文」の出典。「虎関師錬→元亨釈書→日本最初の仏教史」は、字に注意。
『平家物語』は琵琶法師の語る平曲によって、文字を読めない庶民にも広まった。
中学生でも知っていて、国語でも出題される「鴨長明=方丈記」と「兼好法師=徒然草」の、日本史的観点は「方丈記=幕初」「徒然草=幕末」です。
なお、長い間、「吉田兼好」と呼ばれてきた兼好法師であるが、吉田兼好という通称は江戸時代以降のものであることに加え、近年、実際の兼好は神官の吉田家と関係はなく、これは吉田兼俱(『室町時代編8 室町文化2(東山文化)』が自らの系図を粉飾するために捏造したものだという説も出されており、兼好法師とするのが一般的になっている。(エピソード「言動不一致、格好つけのフィーリング-吉田兼好-」へ)
『十六夜日記』は阿仏尼が所領を巡る裁判をしに、京都から鎌倉への赴いた時の紀行文。
最後に。ノートには記してないけど、軍記物語で『保元物語』と『平治物語』というのがある。これらが、平安末期のものか、鎌倉時代のものかで迷う人がいるが、考えたら分かる。国風文化の時代の出来事だった、平将門の乱や前九年の役を描いた軍記物語である『将門記』や『陸奥話記』が、次の平安末期の文化であるように、平安末期の出来事を記した『保元物語』と『平治物語』は、当然、次の鎌倉文化に属する。
2013.2.21 「窓 鎌倉新仏教」の内容を統合しました。
2020.2.8 兼好法師について加筆しました。