エピソード 
『素手で10万の軍勢を破ることができた可能性-承久の乱-

 かくてうち出でぬる又の日、思ひかけぬ程に、泰時ただ一人鞭をあげて馳せ来たり。
 父胸うち騒ぎて、「いかに」と問ふに、「戦のあるべきやう、大方のおきてなどは仰せの如くその心をえ侍りぬ。もし道のほとりにも、はからざるに、かたじけなく鳳輦(ほうれん)を先立てて御旗をあげられ、臨幸の厳重なることも侍らんに参りあへらば、その時の進退はいかが侍るべからん。この一事を尋ね申さんとて一人馳せ侍りき」といふ。
  義時とばかりうち案じて、「かしこくも問へるをのこかな。その事なり。まさに君の御輿に向ひて弓を引くことはいかがあらん。さばかりの時は、兜をぬぎ、弓の弦(つる)を切りて、ひとへにかしこまりを申して、身をまかせ奉るべし。さはあらで、君は都におはしましながら、軍兵を賜はせば、命を捨てて千人が一人になるまでも戦ふべし」といひも果てぬに、急ぎ立ちにけり。(『
増鏡』)

要約:このようにして(京都に向けて)出立した翌日、思いもかけず、北条泰時がただ一人戻ってきた。
父北条義時は胸騒ぎがして、「どうした」と問うたところ、「戦のやり方や処置などは分かりました。しかしもし途中にでも、思いがけず、上皇がじきじきに出陣してくることがあった場合はどういたしましょうか。そのことをお聞きしようとして帰って来たのです」といった。(鳳輦は天皇が晴れの場で乗る輿だが、この場合は上皇と考えてよいと思われる。)
 義時はしばらく考えて、「よい質問だ。君の御輿に向って弓を引くことができるだろうか。そのような時には兜をぬぎ、弓の弦を切って降伏せよ。そうでなくてただ軍兵だけを派遣したのなら、命を捨てて千人が一人になるまでも戦え」と、(義時が)言い終わらぬうちに泰時は急ぎ出立した。

 承久の乱にまつわる有名なエピソードである。ただし『増鏡』は「四鏡」の最後で室町時代初期の成立であり、この記述については、石井進氏が「すでに何人もの歴史家が疑っているように、この挿話はこうであってほしいという公家側の願望を示すものでこそあれ、とうてい事実ではあるまい。」と述べているように、史実ではないとされてきた。

 ぼくは、石井氏の意見を否定するつもりはないが、全く根拠のない話でもなかったのではないかと考えている。

 史料問題としてもよく目にする尼将軍北条政子の檄文(『吾妻鏡』)では、庭を埋め尽くした御家人たちは涙ながらに一致団結を誓い、幕府を守ることを決意したと記されているが、実際はそんなに甘いものではなかった。

 朝敵となる!

 この恐怖感はかなりのものであったらしく、義時追討の院宣に幕府はパニックとなった。源頼朝が平家を討つときでも、すでに死亡していた以仁王が生きていて頼朝陣営に迎えられているかのように偽装して、朝敵の名を逃れようとしている。
 当時の武士たちにとって「朝敵」の二文字が持つ意味は計り知れないものがあった。

 事実、幕府首脳会議は慎重論(言い換えれば非戦論)が大勢を占めた。この時、眼病にかかって失明に近かった初代公文所(政所)別当大江広元が、断固京都攻撃を主張し、北条政子もこれを支持して首脳会議は出陣を決定するが、会議後はまたまた慎重論が勢いを盛り返すという有様であった。
 翌々日の首脳会議では、重病をおして会議に列席した三善康信(初代問注所執事)が大江広元の意見を全面支持したが、それでも軍勢の集まりは鈍く、実際に泰時が鎌倉を出立した時は、わずか18騎であった。北条氏の一か八かの賭けであったようにすら見える。しかし、総大将出立の報に背を押されるかのように、慌てて武士たちは馳せ参じ、東海道を進むにつれ数万の軍勢となった。

 こうなると「勝つほうにつく」のが武士社会である。京都に迫る頃には、鎌倉軍は10万を越える大軍となった。

 それに対して、京都側は「宣旨のひとたび下れば・・・」鎌倉武士が義時の首を持ってやってくるという安易な考えに支配されていた。幕府の御家人でありながら、たまたま京都にいたために行きがかり上、上皇側にくみすることになった武士が、「そんなに甘いものではない」と進言しても、いたずらに後鳥羽上皇を不機嫌にするばかりであった。

 果たして、幕府軍の西上の知らせに朝廷はあわてふためくことになる。

 そして問題の場面を迎える。上皇側についた藤原秀康・三浦胤義・山田重忠らが後鳥羽上皇の出陣を求めて御所に駆けつけたところ、門はかたく閉ざされており、「武士どもならここからいずれへなりとも落ちて行け」との上皇の言葉を聞くことになる。さすがの武士たちも憤慨し、「大臆病の君に語られてバカな死に様をすることよ」と大声で罵ったが、門がひらくことはなかった。(『承久記』)

 しかし、もしも・・・、もしもである。本当に後鳥羽上皇が自ら出てきて宇治川の橋の上に立ち、

 「わしを撃てるもんなら撃ってみよ。」

と言っていたらどうなっていたであろうか。ぼくは幕府軍は降伏したと思う。

 もちろんこれはぼくの思い込みである。しかし、あれほど「朝敵」になることに怯えた御家人たちが、上皇その人に矢を射かけることなどできたであろうか。たとえ北条泰時が「撃て」と命じても、武士たちは本当に弓の弦を切って、馬から下りたのではないか。これが『増鏡』の記述に一分の理があると、ぼくが考える理由である。

 そうならば、「一人の男が素手で10万の軍勢を破る」という、世界史上二つとない、もの凄い光景が展開されていたことになる。

 しかし現実には、後鳥羽上皇は、たちまち義時追討の院宣を取り消し、今度の討幕計画はまったく謀臣たちの仕業であったとして、藤原秀康・三浦胤義らの逮捕を命じる宣旨を発布し、以後は何事も幕府の意向に添うようにしようと泰時に申し入れている。
 上皇にも見捨てられた京都側の武士たちはちりじりとなり、ある者は自害し、ある者は捕らえられ死罪となった。

 後鳥羽上皇は若い時から、自らの肉体を鍛え学問に励み、和歌の才能にも秀でるなど優れた面はあった。しかし、結局はその政治的無責任主義から抜け出せなかったことが、彼にくみした武士たちのみならず、本人をも滅ぼしたと言えよう。

2006.5.4

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