13世紀の政治体制の推移について、次の(ア)~(エ)の語句を用いて論述せよ。
(ア) 永仁の徳政令 (イ) 執権 (ウ) 承久の乱 (エ) 御成敗式目 (筑波大学2015年度 400字)
【当初】
1 源頼朝=将軍親裁(独裁)
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2 源頼家=基本は親裁。ただし、御家人中心の運営を求める動きが強まる→13人の合議制→親裁維持をはかる頼家を修禅寺へ幽閉
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3 源実朝=北条時政が政所別当になり、将軍の執務を代行(自ら執権と称する)。ただし、時政が実権を握ったわけではない。
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4 北条義時=和田義盛を滅ぼし、政所と侍所の別当を兼任(この地位が執権とされる)。
3代実朝は成人後、後鳥羽上皇を協調を強めながら、将軍親裁を進める→御家人は不満
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【源実朝暗殺】
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【承久の乱】(1221)
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【公武の関係が逆転=武家優位の公武二元支配へ】
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【院方所領を没収して新補地頭を補任→訴訟が多発】
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7 北条泰時=集団指導体制を進める
・連署
・評定衆
・裁判の基準として御成敗式目を制定
※集団指導体制だからこそ、判断の基準となるものとして、誰もが納得できる根拠(道理と先例)に基づく法が必要であった。
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8 北条時頼=宝治合戦で三浦氏を滅ぼし、得宗独裁の性格を強める。その一方で引付をおいて裁判の迅速化をはかり、御家人のニーズに応える。
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【蒙古襲来】
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【幕府の支配権が全国的に強化される】
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9 北条貞時=得宗専制となる
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反面、御家人の多くは所領の細分化や蒙古襲来の負担などによって窮乏→幕府への失望、北条氏への不満、信頼を失う
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10 幕府支配は危機を深める
<野澤の解答例>
将軍独裁であった源頼朝の死後、御家人中心の政治を求める動きが強まった。北条時政は頼家を廃して実朝を将軍にたて、執務を代行して執権と称し、次いで義時は和田義盛を滅ぼして執権の地位を固めた。源実朝が暗殺されると、後鳥羽上皇は承久の乱を起こしたが敗北し、公武の関係は幕府優位となった。北条泰時は、連署・評定衆を設置して集団指導体制を進めるとともに、裁判の基準として御成敗式目を制定した。さらに北条時頼は三浦氏を滅ぼして北条氏の地位を不動のものにするとともに、得宗独裁の性格を強める一方で、引付をおいて裁判の迅速化をはかり、御家人の要望に応えた。蒙古襲来を機に幕府の支配権は全国的に強化され、得宗専制となったが、御家人の多くは所領の細分化や蒙古襲来の負担などによって窮乏していった。幕府は永仁の徳政令を出して救済を図ったが、効果は一時的であり、御家人は北条氏に対する不満をつのらせ、幕府支配は危機を深めた。(400字)
2021.2.13