『鎌倉時代編1 鎌倉幕府の成立』

【1】 先土器時代 (P.1)(P.35〜36)

1 源平争乱治承・寿永の乱
 「以仁王(後白河の皇子)と源頼政の挙兵で始まって、途中福原京へ遷都があり、壇の浦の戦い1185)で安徳天皇が入水し、平家が滅亡した。」が基本(エピソード「ヒロイックファンタジーの主人公になれる日本史上唯一の人物」へ)。源義仲を加えて、石橋山の戦いからの順序が並び替えられれば言うことない(窓「源平争乱の流れ」へ)。

2 鎌倉幕府の成立
(1) 成立過程
 「侍所1180)=和田義盛」。「公文所(1184→政所 1191)=大江広元」。「問注所(1184)=三善康信」の3点セットは絶対。
 守護・地頭の設置の1185年は猫でもできる。奥州藤原氏滅亡(1189)は平泉が大切。そして、正誤問題。頼朝は後白河法皇が死んで将軍になった。(1192年)つまり、後白河法皇に将軍に任じられた×
 
(2) 十月宣旨(寿永の宣旨)
 ところで、「いつ鎌倉幕府が成立したのか」という話。これにはいろんな説がある。
 山川の『詳説日本史B』は「守護・地頭設置」の1185年をもって「幕府確立」とし、1192年に征夷大将軍に任命されたことをもって、「名実ともに成立」としている。これは東京書籍などの中学校の教科書も同じである。現在は、これが通説化しつつある(ぼくのノートでも取りあえず、実質上成立としている)
 一方で、1183年の十月宣旨(寿永の宣旨)で、後白河法皇から東国の支配権を承認されたことをもって、成立とする説もある。これは、「守護・地頭の設置」に関する2つの史料からもうかがえる。
 幕府の公式記録である『吾妻鏡』には「諸国平均に守護・地頭を補任」とあるのに、九条兼実の日記である『玉葉』には、「五畿・山陰・山陽・南海・西海の諸国」とあり、「東海・東山・北陸」がない。ここからも1185年段階で、すでに朝廷は頼朝に東国の支配を認めていたことがわかる。鎌倉時代は、一つの土地の上に公家権力と武家権力が併存している公武二元支配であったが、承久の変までは公家優位であり、幕府はあくまで東国政権に過ぎなかった。そのことを考えると、「1183年=十月宣旨説」にも説得力がある。
 結論としては、「鎌倉幕府は段階的に成立していったのであって、成立した年代というものはない」というのが本当のところである。だから大学受験において「鎌倉幕府の成立年代を答えよ」という設問はでない。問われるとすれば、あくまで「守護・地頭の設置年代」「征夷大将軍に就任した年代」である。

(3) 守護・地頭について
 初代政所の別当となる大江広元の建議で、史料にある通り、「源義経、行家の追討が名目」であった。守護は一国一人。地頭は荘園・公領ごとに一人置かれた。
 守護の職掌は、貞永式目にある大犯三箇条、すなわち大番催促京都大番役などを御家人に割り当てる)・謀叛人・殺害人の検断(謀叛人の検断と殺人犯の検断。検断とは、捕まえて裁くこと。今では使われない言葉です。)である。これが主なものではない。本来はこの3つだけであった。
 地頭の職掌について。「地頭とはあくまでも荘官」だから、荘園の管理や年貢の徴収なのは、考えたら分かる。当初は平家没官領(へいけもっかんりょう)にのみ置かれた。
 この時、地頭には反別5升兵粮米(字に注意)を徴収する権利が与えられた。この兵粮米と承久の乱後に出された「新補率法」に記されている加徴米が混合されやすい。
 兵粮米はいわゆる「兵糧米」だと考えると分かりやすい。「兵糧」とはあくまで戦時の食糧であり、これは守護・地頭設置の名目を「源義経・行家追討」としていたことに関係がある。兵粮米は戦時立法として、後白河法皇から認められた(認めさせた)のである。しかし、国司・荘園領主たちの反発が強く、翌年には撤回された。
 ところで地頭は荘官だから得分がある。では守護の得分は?。答え、「ありません」 守護のイメージは、国内最大の地頭が兼任しており、地頭の得分で食っていた。

3 幕府と朝廷
(1) 封建制度
 
かつて「鎌倉時代の封建制度について、御恩奉公土地ということばを用いて説明しなさい。」という高校入試の問題があった。
 解答例は中学校の教科書に記されている通り、「将軍と御家人
とが、土地を仲立ちとして御恩と奉公の関係で結ばれている制度」であり、これは大学入試においても変わらない。
 御恩とは、「先祖伝来の所領の支配権を認めてもらう(本領安堵←堵という正しい字がでません)」ことと「新たに地頭などに任命してもらう(新恩給与)」である。

<発展的な内容>
 上で述べた高校入試の問題について、採点者を苦しめた答案があった。それは「御家人が奉公するかわりに、将軍から御恩として土地をもらう制度」というものである。御恩とは土地をもらうことではない。土地はあくまで本所のものである。
 山川の教科書(例:新課程『詳説日本史B』)には「封建制度は、土地の給与を通じて主従のあいだに御恩と奉公の関係が結ばれるという支配階級内部の法秩序」と書かれているので、素直に読めば土地そのものをもらうように読み取れる。
 しかし鎌倉幕府の御家人への所領の安堵や給与は、土地自体の安堵や給与ではなく、荘園制に基づく地頭職(じとうしき)という1種の荘官職への任命という形式をとっていた。
 荘園制での(しき)は、本家(本所)職ー領家職ー預所職・下司職・地頭職などというように重層的な体系を持っていたので、これを「重層的な職の体系」という。この職とは、開発などによって領主権が成立するにともない、その権利に付随した収益権(得分権)をいう。得分という言葉は、先の守護・地頭の項でも使用したものである。この権利は売買や譲渡も可能であった。職は中世にはいって拡大し、守護職・地頭職・名主職などが現れることになった。地頭職に任ずるとは、この得分権を与えたのである。
 山川の教科書に書かれている封建制度の定義は、世界史上の定義であり、厳密にいうと鎌倉幕府の制度はこの原則とは異なることになり、御家人制を封建制度とすること自体にも異論はでている。


 奉公京都大番役、鎌倉番役は猫でもできる。戦時の軍役(いざ鎌倉)はいうまでもない。

(2) 経済基盤(関東御成敗地)
 「関東御成敗地」なんて言葉は覚えなくてよい。幕府の経済基盤は、「荘園=関東御領→平家没官領中心、500余ケ所)」と「知行国=関東知行国(関東御分国)→御家人を国司として任命」でいいと思う。関東進止の所領(頼朝が地頭の任命権を持つ公領・荘園)などは難問。そう言えば、関東知行国がカ国だというのを判断させる正誤問題があったなぁ。

 実は、この幕府の経済基盤が荘園・知行国であることが、貞永式目で地頭の荘園侵略を禁止していることにもつながっている。鎌倉幕府自身が巨大な荘園領主であり、地頭の荘園侵略を認めることは、自らの足を喰わすようなものであった。
 ここに、地方武士のニーズによって誕生していながら、その最大の願いである、実力による土地支配を認めることができないというジレンマをかかえることになる。

(3) 朝幕関係
 @公武二元支配のイメージをしっかり持ちたい。土地の上に京都の朝廷(公家)や寺社勢力、そして鎌倉幕府(武家)が並立して支配権を持っている構造である。基本的には承久の乱までは、公家優位の公武二元支配であったものが、乱後は武家優位に変化したと理解してよい。
 A新制とは、律令・格式編纂後に新たに出された法令のことであり、延久の荘園整理令も新制の一つである。これにならって幕府も新制とよぶ法令を出すようなった。ノートのP.38には、例として「弘長の新制」をあげたが、これは当時将軍であった宗尊親王主導によって幕府単独で出された最初の新制(武家新制)であった。

(2006.5.3更新) 
(2013.1.11 守護・地頭、封建制度に加筆・更新)

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