エピソード 『真のダンディズム』

 北条重時が受験で問われるとしたら、おそらく『貞永式目制定のねらい』を述べた、3代執権北条泰時の手紙の受取人としてだけであろう。泰時の異母弟であり、当時六波羅探題北方を勤めていた。(六波羅探題には北方と南方の2つ(二人)がある。これは、最初の六波羅探題となったのが北条泰時と時房の二人であったことを考えれば分かる。尚、重時の子孫は六波羅北方を多く勤めるようになる。)

 重時の実母兄の朝時が、何かと泰時との不仲を言われ、事実その子どもたち(名越流)が、反得宗家勢力となったこととは対象的に、彼は執権泰時・経時・時頼からの信頼がすこぶる厚かったようである。駿河守、相模守、陸奥守を歴任したが、相模・陸奥守は、義時、時房、泰時が勤めた職でもあった。

 また北山十八間戸を建てた忍性が住することになった極楽寺は、重時が建立した寺であり、忍性は重時の葬儀の導師となっている。

 そして注目したいのは彼が残した『六波羅殿御家訓』『極楽寺殿御消息』という、武家で最初の家訓である。一族に宛てたもので、中には次のような内容のことが記されている。

下積みの者たちへの思いやりを持たねばならない。家臣、女性、子どもはもとより、遊女に対しても、その人格を尊重せよ。侮ったり、辱めたりしてはならない。」(そして彼は一夫一婦制を説いている。でも重時本人には複数の妻がいた。)

今生と後生(来世)とは、はっきりと区別せよ。後生を願うのは晩年の60歳を越えてからでよい。元気な50歳代までは、君を守り、民を育み、身を修めて現実社会のために尽くすべきである。この世を正直に生きていくことは、仏神も加護してくれる。

そして何よりぼくが気に入ったのは次の点である。

一 人ノ前ニ出ム時ハ、ヨクヨク鏡ヲ見、着タル物ヲヒキツクロヒ、衣紋ヲカキイレ、何度モツクロウベシ。サテ出ム後ハ、聊モケハイシ、座席ニテ躰ヲツクロヒ、若ハキソクヅク事アルベカラズ。人ニモ中々軽ク思ハレ、ゲニゲニシキ人ハワラヒイヤシムナリ。内ニテハイカニモツクロヒケハウベシ。出テ後ハスコシモ其沙汰アルベカラズ。
注:「ツクロウ=美しく装う」「ケハイ=身づくろいをすること」「キソクズク=わざともったいぶって得意顔をする」「ゲニゲニシキ人=実直で人をうなずかせる人」

つまり

 「人の前に出る時は、しっかりと鏡を見て、服装などに乱れはないか、着こなしには充分に気を配らなくてはならない。しかし、人前に出てからは、絶対に衣服をつくろったりしてはならない。人に軽く思われ、笑われることになる。
 とにかく、(家の)内にいる時にしっかりと身だしなみを整え、装うとともに、人前に出たら、その素振りも見せてはならない。

あー、何という見事なダンディズム!やはり男はこうありたい。

(2002.11)


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