史料『延久の荘園整理令〜承久の乱(新補率法)』のポイント

延久の荘園整理令(1)
 「(延久元年2月)…寛徳2年以後の新立荘園を停止すべし、縦い彼の年以往といえども、立券分明ならず、国務に妨げある者は、同じく停止の由宣下す。(同年)閏2月…、はじめて記録庄園券契所を置き、寄人らを定む。何について書かれたものか判断できるように。延久元年1069年。記録庄園券契所の空欄補充は「記録荘園券契所」として可。たまに寛徳2年が何年かが問われる。

延久の荘園整理令(2)
「この後三条院の位の御時、…延久の記録所とてはじめてをかれたりけるは・・・、すなわち宇治殿の時、一の所の御領御領とのみいいて、庄園諸国にみちて受領のつとめたえがたしなどいうを、聞こし召しもちたりけるにこそ。 」『愚管抄
 後三条延久は空欄補充。宇治殿藤原頼通一の所摂関家。出典の『愚管抄』と作者慈円も問われる。

院政の開始
「天下を治め給うこと十四年。太子に譲りて尊号あり。世の政をはじめて院中にてしらせ給。後に出家せさせ給ても猶そのままにて御一期はすごさせましましき。」『神皇正統記
 譲られた太子堀河天皇はじめて院政を行ったのは白河上皇出家した後建立した法勝寺をはじめとする院政期に皇室によって建てられた寺院の総称である六勝寺という言葉も問われる。『神皇正統記』の筆者が北畠親房なのは言うまでもない。

白河法皇の三不如意
白河の院は、賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心に随わぬ者と、常に仰せのあるけるとぞ申し伝えたる。」
白河は空欄補充。山法師とは延暦寺の僧兵

平家の繁栄
「・・・・六波羅殿の御一家の君達といいてしかば、花族も英耀も面をむかえ肩をならぶる人なし。されば入道相国のこじうと、平大納言時忠卿ののたまいけるは、「この一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」『平家物語
 六波羅殿入道相国は、同一人物で平清盛時忠はたまに聞かれる。出典は言うまでもない。

福原遷都
 「また、治承4年水無月のころ、にわかに都遷り侍りき。いと思いのほかなりし事なり。この京のはじめを聞ける事は、嵯峨の天皇の御時、都と定まりにけるより後、すでに400余歳を経たり。」『方丈記
都遷りでどこに移ったのか→福原京嵯峨の天皇は誰に誤りであるか→桓武天皇。出典から作者鴨長明を聞く。

守護・地頭の設置(1)
「(文治元年11月)12日辛卯。・・・およそこの度の次第、関東の重事たるの間、…因幡前司広元もと申していわく、「世已に澆季にして・・・。この次をもって、諸国に御沙汰を交え、国衙・庄園ごとに、守護地頭を補せらるれば、強ち怖るるところあるべからず。…」と云々。二品、殊に甘心し、この儀をもって治定す。」(『吾妻鏡』)
 文治元年1185年。この度の次第は、行家・義経の反逆で可。因幡前司広元はもちろん大江広元。守護地頭はキーワードだが、場合によっては空欄補充。二品源頼朝である。

守護・地頭の設置(2)
「(文治元年十一月)二十八日丁未、諸国平均に守護地頭を補任し、権門勢家庄公を論ぜず、兵粮米段別五升を宛て課すべきの由、今夜、北条殿、・・・・」(『吾妻鏡』)
 文治元年1185年。兵粮米、段別升は空欄補充。北条殿北条時政。なお、「公家の反発」として出される九条兼実の『玉葉』では、北条丸となっている。かつて『玉葉』では「相分て五畿・山陰・山陽・南海・西海の諸国」とあって東海・北陸・東山が抜けているのはなぜかという出題があった。これは「十月宣旨」(1183)ですでに東国の軍事的支配権を認めていたからである。

承久の乱(1)・・・北条政子の檄
 「・・・・二品、家人らを簾下に招き、秋田城介景盛をもって示し含めていわく、「皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大将軍、朝敵を征罰し、関東を草創してより以降・・・」(『吾妻鏡』)
 二品とは北条政子。上の「守護・地頭の設置」の頼朝と混同しないこと。故右大将軍源頼朝である。もちろん承久の乱の時のことだと分からなくてはならない。

承久の乱(2)
 「・・義時久ク彼ガ権ヲトリテ・・・一往ノイハレバカリニテ追討セラレンハ、上ノ御トガトヤ申ベキ」(『神皇正統記』)
 義時追討するのは上のとが(罪)と言っているのだから、承久の乱のことと分かる。出典は『愚管抄』と思いたくなるが、『神皇正統記』である。

新補率法
 「去々年の兵乱以後、・・・田畠各拾一町の内、町は領家国司の分、町は地頭の分、・・・加徴は段別五升を充て行はるべし・・・」
 去々年の兵乱承久の乱(1221)。ここからこれは1223年のことと分かる。町と町を足して拾一(11)になる。加徴は空欄補充。

史料のポイント目次へ戻る
トップページへ戻る