『鎌倉時代編3 武士の生活/地頭の荘園侵略/産業・経済』

武士の生活 (P.39)
まずは空欄補充から。「武士は所領の中心の微高地に武家造を構え、周辺にはや門田、正作などとよばれる直営地を設け、下人などに耕作させた」
 さてと...。相続が当初分割相続であったが、元寇ごろから惣領単独相続になったことは、正誤問題で頻出(全て「分割相続→単独相続」の流れを、逆に書いてあると思ってよい)。女性の地位も比較的高く、女性の地頭もいたり、女子も相続の対象になったが、元寇ごろを境に惣領制が崩壊すると、「死後は惣領に財産を返す一期分」が多くなった。(一期分については、「結婚後は」という正誤問題×があった。また、「女性の御家人もいた」という正誤問題もあったが、地頭は御家人でなければ任命されないから、当然である。)
 武芸の騎射三物は、犬追物流鏑馬笠懸の3つであって、巻狩は入らないことに注意。笠懸は「男衾三郎絵巻」の絵で分かって。
 尚、「軍役負担も年貢徴収も、惣領が責任者となり、庶子に割り当てた」ことなど、惣領制に関する問いは、正誤問題以外にも論述でも見られる。

地頭の荘園侵略 (P.39)
 用語を正確に覚えれば怖くない。地頭請(地頭請所)は室町時代の守護請との正誤問題。下地中分土地を折半したのであって年貢を折半したのではない! (「東郷荘」の絵図がよくでる!)
 『紀伊国河荘民の訴状』(1275)で、領民は地頭の湯浅氏を、荘園領主へ訴えたのであって、幕府や朝廷に訴えたのではない!(正誤問題注意。平安時代の受領の「尾張国郡司百姓等解文」とのひっかけもある。史料、写真資料も確認しておくこと。なお、出典が『高野山文書』であるため誤解されがちなのだが、河荘の領主は高野山ではない。本家は園城寺円満院、領家は寂楽寺で年貢として木材を納めていた。

5 産業・経済 (P.40)
 ここは室町時代の産業との比較が全てと言って良い。ノートは時系列で鎌倉と室町(P.51~52)とを別々につくっているが、室町時代の学習が終わった後、必ずセットでおさえて欲しい。

             鎌倉                          室町

☆ 農業 ・・・ 二毛作開始(畿内・西国)裏作は     ⇔  三毛作開始、二毛作普及。裏作は麦、そば
          牛馬耕の進展(←『松崎天神縁起絵巻』)

☆ 肥料 ・・・ 刈敷草木灰                  ⇒ 刈敷、草木灰、下肥

☆ 定期市・・・ 三斎市(月3回)                 ⇔  六斎市(応仁の乱後)
 ※備前国福岡市(岡山県)(←『一遍上人絵伝』)は絶対!

☆ 常設店・・・ 見世棚登場                   ⇒ 見世棚増加

☆ 交通要地・・ 問丸(問)=貸倉庫、委託販売       ⇔  問屋=卸売

☆ 陸上運送                           馬借、車借 (近江坂本の馬借一揆→正長の土一揆) 

☆ 水上運送                           廻船の往来盛んになる

☆金融業者・・・ 借上                   ⇔  土倉、酒屋
 (高利貸し)
☆ 貨幣  ・・・ 宋銭                   ⇔  明銭
永楽通宝

☆遠隔地の決済・・為替                  ⇒ 為替普及


 11世紀後半から12世紀にかけて荘園公領制が成立した。これは、遠隔地を結ぶ交通・流通の発達によって支えられていた。荘園領主は京都や奈良に集住(後には鎌倉に住む領主も現れた)していた。要地に湊や津,宿が形成されたからこそ、荘官は全国各地にある荘園から年貢を領主のもとに運ぶことができたのである。この状況のなか、要地に問(問丸) が倉庫を構えて、年貢の保管や委託販売などに従事するようになった。
 鎌倉幕府が,東海道を鎌倉と京都を結ぶ幹線道路として重視したため,交通・流通が発達したことは、阿仏尼の『十六夜日記』(『鎌倉時代編5 鎌倉文化1(宗教と学問・文学)』参照)の内容からもうかがえる。当時、60歳に近かった阿仏尼は、京都を出て2週間で鎌倉に到着している。

 年貢を現物ではなく換算額を納入する銭納(代銭納)が広まっていったが、「農民⇒(現物納)⇒荘官⇒(銭納)⇒領主」という構図が一般的であった。室町時代になると、農民が銭納するようになる。
 農民の副業については、原料と製品の関係を押さえておく。主なものは「荏胡麻→油」「→和紙」「→染料」である。

<発展的な内容:銭納(代銭納)が広まった背景>
 
東大など、難関大の論述はもちろん、センター試験対策でも、世界史的な視野にたった日本史の認識が必要となっている。

 
鎌倉時代後期になると、年貢の代銭納が広まるが、そこにも東アジア情勢が関係している。
 元の皇帝となったフビライが紙幣(交鈔)を発行し、1270年代には銅銭の使用を禁止すると、中国で無用となった銅銭が大量に日本に流れ込むこととなった。その結果、日本における銅銭の流通が一層進展し、このことが現物ではなく換算額を年貢として上納する銭納を普及させたのである。
 しかし、元で銅銭鋳造が行われなくなったことは、新たな銅銭の供給がなされなくなるということであった。一方、日本国内の経済は発展を続けたため、今度は銭不足となり、銅銭の価値が上昇することとなった。

 このような中で、鎌倉幕府を倒すことに成功した
後醍醐天皇は、銅銭(乾坤通宝)の鋳造を計画した。(受験内容としては覚えなくて構いません。)この計画については、「延喜・天暦の治」を理想とした(皇朝十二銭の最後、乾元大宝は村上天皇の時だが、その前に延喜通宝も出されている)、実現性を無視した復古主義という意見も見られるが、大内裏の造営計画と打ち出す中、価値が高くなった銅銭を発行して、発行益を財源にすることを期待したものだと考えられる。

 しかし、後醍醐の計画は実現せず、国内の銭不足が深刻化する中で登場したのが
足利義満であった。彼が朝貢という形で日明貿易を行い、その主たる輸入品が銅銭(明銭)であったのは、王権たる「通貨発行権」を手に入れることと合わせて、国内の銭不足を効率よく解決するためでもあった。受験上は「日明貿易の輸入品の1位は銅銭」となっているが、銅銭は下賜品であったのだから、購入費はタダであった。

 (参考: コラム 頂いた質問から(23)『中世の日本が貨幣を発行しなかった理由』


(2013.2.17 銭納に関する発展的な内容を加筆)
(2013.4.11 河荘民の訴状に関する記述に追記)

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