発展 『鎌倉時代の将軍って何ですか?』
    ー東大入試問題に学ぶ 1 ー
(1997年第2問)

 日本史の教員をしていて「おもしろい」と思うことの一つは、それまで成績が鳴かず飛ばずで半分ふて腐れていたような生徒が、日本史を起爆剤にして生き返ることである。
 ぼく自身は「共通一次7科目1000点満点」の世代なので、一点豪華主義には反対なのだが、どんな世界でも下剋上にはロマンを感じるものである。(もっとも下剋上は滅多に成功しないからロマンがあるのであって、言うまでもなく勉強の王道は「勉強体力+自己管理+バランス」である。)

 そしてそんな生徒は時にこちらが予想もしていなかった質問をしてくる。他の生徒なら「今更何を・・・」というようなものだが、その単純な質問が本質を突いていることがある。

 その一つが今回の「鎌倉時代の将軍って何ですか?」である。

 この生徒は以前「なんで飛鳥浄御原令なんかつくったんですか?」と聞いた生徒と同一人物である。
  (
発展 『なんで飛鳥浄御原令なんかつくったんですか?ー律令国家形成とは何かー』

 前回同様、一瞬戸惑った。そして頭に浮かんだのが東京大学の1997年の第2問であった。思わず「あっ!」と声が出た。

 「おまえ、鋭いなぁ!!」

と言ってしまった。

<東京大学1997年度第2問>
 
次の(1)から(5)の文を読み、下記の設問に答えよ。

(1) 1203年、北条時政は、孫にあたる将軍源実朝の後見役として政所の長官に就任し、幕府の実権をにぎった。この地位を執権といい、以後北条氏一族に世襲された。

(2) 1219年に実朝が暗殺された後、北条義時は、幼少の藤原頼経を摂関家から将軍に迎えた。

(3) 1246年、北条時頼が前将軍藤原頼経を京都へ追放したとき、有力御家人の三浦光村は、頼経の輿にすがって、「かならずもう一度鎌倉の中にお入れしたく思う」と涙ながらに言い放った。翌年、時頼は三浦泰村・同光村ら三浦一族をほぼ全滅させた(宝治合戦)。

(4) 1266年、北条時宗は、15年間将軍の地位にあった皇族の宗尊親王を京都へ追放した。この事件について、史書『増鏡』は、「世を乱そうなどと思いをめぐらしている武士が、この宮に昼夜むつまじく仕えている間に、いつしか同じ心の者が多くなって、宮自身に謀反の意向があったかのように言いふらされたものだろう」と説明している。

(5) 1333年、後醍醐天皇の皇子護良親王は、諸国の武士や寺社に送った幕府打倒の呼びかけのなかで、次のように述べた。「伊豆国の在庁官人北条時政の子孫の東夷どもが、承久以来、わがもの顔で天下にのさばり、朝廷をないがしろにしてきたが、ついに最近、後醍醐天皇を隠岐に流すという暴挙に出た。天皇の心を悩ませ国を乱すその所業は、下剋上の至りで、はなはだ奇怪である。」

設問

A 鎌倉幕府の体制のなかで、摂家将軍(藤原将軍)や皇族将軍はどのような存在であったか。北条氏と将軍との関係、反北条氏勢力と将軍との関係の双方に触れながら、3行(90字)以内で述べよ。

B 護良親王は、鎌倉後期に絶大な権力を振るった得宗(北条氏嫡流)を、あえて「伊豆国の在庁官人北条時政の子孫」と呼んだ。ここにあらわれた日本中世の身分意識と関連づけながら、得宗が幕府の制度的な頂点である将軍になれなかった(あるいは、ならなかった)理由を考えて、4行(120字)以内で述べよ。

 ここからしばらくは、ぼくと生徒の会話の実況中継(?)である。

野澤:「将軍の正式名称は何?」
生徒:「征夷大将軍」
野澤:「君たちが授業で習った最初の征夷大将軍は誰?」
生徒:「坂上田村麻呂?」
野澤:「そのとおり。本当は彼が最初ではないのだけど、教科書で出てくるのは坂上田村麻呂だよね。で、この征夷の夷ってどういう意味?」
生徒:「蝦夷?」
野澤:「そう、将軍は蝦夷を討伐するための総司令官。そして幕府というのは、征夷大将軍の遠征時の本陣のことを指したんだ。あくまでも朝廷から蝦夷征討に派遣された将軍の出先の陣という意味だ。さて、源頼朝は将軍になったけど、彼が開いた幕府において将軍と御家人との関係は個人的な主従関係だった。天才政治家であった頼朝の個人技によって幕府は成り立っており、この段階では将軍は御家人にとって絶対的な棟梁であった。ところが・・・」

 頼朝が死に、2代将軍に頼家がなると、北条氏が実権を握るようになる。そして執権と有力御家人による合議制で政治が行われるようになる。こうなってくると本当は将軍なんかいなくても幕府は運営できそうなものだが、そうはいかない。あくまで幕府とは将軍の陣だし、封建制度とは将軍と御家人との主従関係が基本だから、将軍なしでは成立しえない。
 そこへ危機が訪れる。3代将軍源実朝暗殺。これで将軍空位となった。北条氏は朝廷に皇子を将軍に欲しいと求めるのだが、時の後鳥羽上皇は当然、拒否。さらに将軍空位の幕府に対し、北条義時追討の院宣を下した。
 このピンチを乗り切ったことから、時代は大きく動いた。3代執権北条泰時の代には、貞永式目を制定して武士社会を統制するとともに、連署、評定衆を設けて合議制での政治運営を確立し、幼少の藤原頼経を摂家将軍として招き、4代将軍とした。その後、5代執権北条時頼のときには、宗尊親王を皇族将軍として招いている。将軍はお飾りでよく、飾りなら権威付けのために格が高いほうがよいに決まっている。実際、摂関家→天皇家というように格は上がった。

 つまり、鎌倉幕府の将軍とは、源頼朝は御家人との主従関係の上に幕府を創設した名実ともに武家の棟梁であったが、幕府の合議体制(集団指導体制)が確立した段階での摂家将軍、皇族将軍は、幕府の権威付けとしてのお飾り、つまり名目的存在と言える。(参考:「解説 2009年度大阪大学2」

生徒:「でも、摂家将軍二人も宗尊親王も、執権の反対勢力と結んだとして追放されているんでしょう。北条氏は執権として圧倒的な力を持っていたのに、なんで自分が将軍にならなかったんですか?」
野澤:「まさにBの問題やなぁ。源頼朝と藤原頼経と宗尊親王に共通するものって何だと思う?」
生徒:「・・・家柄がいい?」
野澤:「そのとおり!これを貴種という。日本では最高の貴種は天皇家。源氏は天皇家の子孫。みんな貴種なんだ。」

 東大の問題の資料(3)、(4)を見ると、彼らが反北条氏の拠り所(シンボル)にされていることが分かる。つまり摂家将軍や皇族将軍は、執権北条氏にとって幕府を存続させるために名目上不可欠であったが、反対派に利用される存在でもあったわけだ。それならいっそうのこと、何で北条氏自身が将軍にならなかったのか。

 ここに(5)で後醍醐天皇の皇子護良親王が北条氏を「伊豆国の在庁官人北条時政の子孫の東夷どもと呼んだ意味がでてくる。将軍はあくまで朝廷から武家のトップと位置付けられた者で、皇族を身分上の頂点だとすると、それと同格か少なくとも摂関家と対等の貴種でなくてはならない。しかし北条氏は地方の在庁官人出身で、しかも本来なら征夷大将軍に征討されるべき東夷である。これでは将軍にはなれない。しかも鎌倉時代は、五摂家に代表されるように公家の家格が確定し、家柄と官位が固定化された時代でもあった。

 つまり得宗家が将軍になれなかった理由は、中世は天皇を中心として公家の家格が確立され、官位と家柄が固定された時代であった。その身分意識の中で将軍は皇族や摂関に並ぶ貴種が任じられるものとされた。それに対して得宗は在庁官人という低い出自であり、さらに征討されるべき夷の系譜と見なされており、将軍になることはできなかったからである。
 もっとも考え方を変えれば、幕府は貞永式目という武家独自の法典に基づく政治体制を確立しており、執権が支配の正当性を主張するのに将軍になる必要もなかったとも言える。

 
 この歳になっても、生徒の一言に教えられることがある。今回もまさにそうであった。東大の問題は単純でしかも本質を突いているのだと改めて思った。

 なお、野澤による「東京大学1997年第2問」の解答例は次のとおりである。

<野澤の解答例>
A 合議体制が確立した結果、摂家・皇族将軍は権威付けとしての存在であったが、幕府にとって名目上将軍は不可欠であり、反北条勢力の拠り所ともなった。(90字)

B 中世は公家の家格が確立され、官位と家柄が固定された時代であり、将軍は皇族や摂関に並ぶ貴種が任じられるものとされた。その身分意識の中で、得宗は在庁官人という低い出自の上、征討されるべき夷の系譜と見なされており、将軍になることはできなかった。(119字)

2010.11.11


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