『平安時代編3 摂関政治の確立』

 第1章 日本文化のあけぼの

【1】 先土器時代 (P.1) (P.25〜26)

1 藤原北家の発展

 藤原北家の台頭は、外戚政策と他氏排斥がベース。
 普通は事件名の順番を覚えて、それに関係する藤原北家の人物をかましていく。

 『子の変→和の変→天門の変→衡の紛議→原道真左遷→和の変

 「くて、あすが」をはじめとして、いろいろな語呂合わせがある。基本中の基本なのでとにかく覚えること。
エピソード「藤原氏、受験には出ない人物像」
 外戚政策とは、「娘を天皇に入内させ(天皇の后にして)、生まれた皇子を天皇にする」丸暗記!)ことによって、天皇の母親方の親戚になることである。

 ここでは、安和の変までは天皇ごと、その後は藤原氏の「氏の長者」ごとにまとめてみた。

(1)嵯峨天皇の時代
 嵯峨天皇の時、薬子の変平城太上天皇の変)(810年)に際し、藤原冬嗣蔵人頭に任命された。平城太上天皇の寵愛を受けた式家の藤原薬子は自害、兄仲成は射殺され、藤原式家が没落し、藤原北家台頭の契機となった。

(2)仁明天皇の時代
 兄を追い落として皇位を守った形となった嵯峨天皇は、天皇家の絆を重視した。そこで、兄弟とその子どもたちで、皇位を順送りにすることにした。これを巡って、仁明天皇の親心を利用した事件が、承和の変842年)。冬嗣の子である藤原良房が、伴健岑と、三筆の一人でもあった橘逸勢を失脚させた。皇太子であった淳和天皇の子恒貞親王が廃され、仁明天皇の子道康親王(後の文徳天皇)が立太子した。

(3)清和天皇の時代
 文徳が若くして死去した後、9歳で皇位についたのが、良房を外戚とする清和天皇である。
 天皇の即位とともに、藤原良房は事実上の摂政となる(858)。そして、866年の応天門の変(ぼくの受験生時代、「はっ、ムム、応天門の変」という年代語呂合わせがあった。全く意味がないんだけどこれで覚えてしまった。)で、名実ともに摂政となり、大納言伴善男を伊豆へ流罪とした。ちなみにこの清和天皇に入内してきたのが、在原業平とのロマンスのあった高子である。(「伊勢物語」へ)
 なお、応天門の変を題材にした平安末期の絵巻物が『伴大納言絵巻』である。応天門の変は、平安末期の絵巻物からも問えるため、出題頻度が高い。

 清和天皇は、文徳の第四皇子であり、文徳自身は、第一皇子であった惟喬親王を後継者にと考えていた。このことを気に病んだのか、清和は若くして陽成天皇に譲位。しかし、陽成は、暴虐な振る舞い(とされているが陰謀説あり)で、廃されてしまう。

(4)光孝天皇の時代
 陽成天皇を廃した後、良房の養子藤原基経は、50歳を過ぎていた光孝天皇を擁立。天皇は基経を、最初の関白とした(884)。

(5)宇多天皇の時代
 光孝の後、皇位についた宇多天皇は、基経を正式に関白にしようとするが、この時の詔に使われていた「阿衡」という文字を巡って、基経が天皇に嫌がらせをする。結局、天皇は非を認め、起草者の橘広相を処罰して、事態を収拾した。(阿衡の紛議887〜888年)
 基経と宇多天皇との間の溝は、双方の歩み寄りで埋まったかに見えたが、実は宇多天皇は根に持っていた。基経死後、宇多天皇は摂関を置かず(寛平の治ともいう)、菅原道真を登用。これを遠ざけようとした藤原時平の陰謀(道真を遣唐大使とする)を、カウンターで潰した(894年、遣唐使廃止)。なお遣唐使関係は、飛鳥時代〜奈良時代編5『遣唐使と天平文化』を参照してほしい。
 また、、この宇多天皇の時、宮中警備のため滝口の武士が置かれている。

(6)醍醐天皇の時代
 しかし、次の醍醐天皇の時、左大臣藤原時平は、菅原道真を大宰府へ左遷した(901年、昌泰の変)。2年後道真は大宰府で死去。以後、時平の血筋に不幸が続き、醍醐天皇は道真の怨霊に怯えることとなる。
 この醍醐天皇の時、左大臣藤原時平のもと「最初の荘園整理令=延喜の荘園整理令902)」とともに同年、最後の班田収授が行われるなど国政の建て直しが図られた。
 また、「古今和歌集」撰上の詔が出されたのもこのころ(905)である。この他にも「延喜格式」、「日本三代実録」の編纂も醍醐朝の事業である。
 しかし、後世、「延喜の治」と讃えられた醍醐朝も、時平の死後は、宇多上皇・醍醐天皇ともに享楽を追求し、三善清行の「意見封事十二箇条」(914)が出されたように、律令体制の崩壊と変質が顕著となった。

 この醍醐天皇の時代は出題頻度が高い。政争・土地制度・文化事業・律令制の変質と、ジャンルが多岐に渡るので作問しやすいからである。それだけに要注意である。

(7)村上天皇の時代
 村上天皇は「天暦の治」で具体例は皇朝十二銭の最後の乾元大宝958のみ。
 なお、承平・天慶の乱(平将門・藤原純友の乱)は、この延喜・天暦の治の間に起こっている。

(8)冷泉天皇の時代 
 冷泉天皇の時、最大の目玉である安和の変969年)がおこる。左遷されたのが、左大臣源高明であり、これが「藤原北家による他氏排斥が完了し、摂関常置の契機となった事件」と丸暗記する。
 安和の変の時の関白として、藤原実頼を問う出題が私立大で出る場合もあるが、実頼は冷泉天皇と外戚関係がなく実権はなかった(発展 『藤原氏って何で衰えたんですか?』ー東大入試問題に学ぶ2ー 参照)。だからぼくは実頼を重視していないが、私大を受験する人は「枝葉末節問題」としてチェックしておいてもよい。

2 摂関政治の全盛
(1)藤原北家内の「氏の長者」争い
 ここからは、藤原北家内部の「氏の長者」(氏の首長で、氏寺、大学別曹の管理や一族の官位推挙にあたる。藤原氏の場合は、摂関を兼ねるようになり、大きな力を持つことになった。)争いとなる。兼通(兄)VS兼家(弟)、道長(叔父)と伊周(甥)の争いは有名。

(2)藤原道長の時代
 藤原北家の全盛、藤原道長について。彼の有名な「この世をばわが世とぞ思ふ望月の・・・」の歌の出典が、藤原実資の日記『小右記』だと分からなければ、受験生中で自分だけだと思ってよい。(エピソード「飲んで・歌って・殴って・働いて-平安貴族-」へ)なお、この歌が読まれた時(1018)に最も近い出来事として、刀伊の入寇1019)を選ばせる問題がよく見られる。ちなみにこの時活躍した藤原隆家は、伊周が失脚した時に連座して大宰府に左遷されたが、この後京都に帰ってきた。
 道長の日記は彼が建立した法成寺にちなんで「御堂関白記」というが、道長自身は関白になっていないエピソード「法成寺と安倍晴明」へ)。

(3)藤原頼通の時代  
 藤原頼通は、平等院鳳凰堂関係で、「宇治殿」と呼ばれる。摂関在職50年という長きにわたった。

3 国際情勢の変化
 10世紀の国際情勢も並行して押さえておかなければならない。要は10世紀前半に、日本と深い関係にあった大陸の王朝が、すべて滅んだ(交代した)ということが分かっていればよい。
(1)中国。唐滅亡907)→建国(960)、渤海滅亡(926)→(契丹)
 菅原道真が遣唐使廃止を建議(894)してから、間もなく唐は本当に滅亡したわけだから、道真の主張はあながち嘘でもなかったことになる。
(2)朝鮮半島。新羅滅亡→高麗建国(935)

(2004.6.20加筆)
(2005.10.23更新)

(2010.3.2改訂)
(2013.1.1改訂)

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