エピソード 『飲んで・歌って・殴って・働いて -平安貴族-』

  寛弘5(1008)年11月1日、時の左大臣藤原道長邸で行われた大宴会でのことである。招かれた大勢の公卿や殿上人が、すっかり出来上がってしまって、馬鹿騒ぎに興じる中、中納言藤原公任が、紫式部に向かってこう言った。

「申し訳ありません。このあたりに若紫はおりませんか。」

 若紫とは、もちろん『源氏物語』の永遠のヒロイン「紫の上」の幼いころの名、言ってみれば「美少女キャラ世界第1号」である。『紫式部日記』には、これに対する彼女の返答は記されていない。しかし、彼女は内心こう思っていたらしい。

光源氏のような素敵な殿方もいないのに、どうして紫の上だけがいらっしゃたりするものですか。

 藤原公任と言えば『和漢朗詠集』に代表される、和歌・漢詩・管弦のすべてに秀でた当代最高の文化人であるが、これではただの酔っぱらいのオッサンである。それくらいこの晩の宴席は、乱れた見苦しいものであったが、幸いなことに暴力沙汰は起きなかった。
 と書くと「当たり前じゃないか。」と思われるかもしれない。今日、仲間内の宴会で暴力沙汰が起これば大騒ぎである。しかし、平安朝の貴公子たちは、自宅で、他家で、路上で、酒宴の席でも素面でも、あまつさえ天皇の御前でさえも、ごく日常茶飯的に暴力事件を起こした。気に入らない者、対立する者を拉致監禁して殴る蹴るの集団暴行を加えたり、門前を通る牛車に投石したり、枚挙にいとまがない。この宴の主催者である藤原道長ですら、若い頃は暴力行為の常習犯だったし、その息子たちも目立った暴力事件の記録がないのは、長男藤原頼通ぐらいである。光源氏の優雅さとはほど遠い有様であった。(このあたりは、繁田信一氏の著書『殴り合う貴族たち』(2005刊行)に詳しい。

 平安王朝の貴族たちは、品行方正に努めた、軟弱で柔和な優男たちだったというのは、大きな誤解である。

 そしてもう一つの誤解は、某テレビの4時間歴史番組でミュージカル的に描かれたような、「貴族は遊んで暮らせるから恋が仕事」というイメージである。

 確かに『源氏物語』にも描かれるように、彼らがラブロマンスに力を傾けたことは事実である。しかし、遊ぶことしか念頭になかったというのは、大きな誤りと言える。もちろん、道長の時代は家格が重んじられた時代であったから、昇進は必ずしも能力と一致はしなかった。だが同じような身分のTOP貴族でも、やたらに忙しく華々しく活躍する者と、まったく仕事がない者とがいたのも確かであり、この差ははっきり言って能力の差であった。
 その典型が、道長が例の「この世をば わが世とぞ思ふ望月の・・・」の歌を詠んだ(1018)ころ、ともに大納言であった『小右記』の筆者藤原実資と、『蜻蛉日記』の作者の息子にして道長の兄、藤原道綱である。

 1017年、藤原実資は、後一条天皇の即位に伴う石清水・賀茂神社への行幸の上卿(責任者)を勤めることになった。天皇即位に伴う各種イベントは、ミスの許されない大事業である。実資は、各官吏を指揮し、道長、頼通とも連絡を取り合い、これを落ち度なく成功に導く。準備期間から本番まで繁忙を極め、当日は早朝から参内していた実資が、万事を無事に終えて内裏を退出したのは、午前1時のことであった。
 しかもこの間に、実資は別の国家的大イベント(一代一度任王会=天皇一代に付き、一度だけ行われる祈願祭)の責任者も兼任し、これもつつがなく勤めあげている。さらにその後も多忙を極めた実資は、姉の死による服喪を理由に役目の辞任を願い出たが、許されなかった。

 一方の藤原道綱には、まったく仕事がまわってこない。立場上は道綱は大納言の筆頭であり、2番手の実資よりも上であった。別に働かなくても減俸降格になるわけでもなく、生活に困るわけでもないが、これは「一文不通之人」→「漢文が読めない人」→「この時代、貴族男性の公式文書は漢文であったから、要はまったく仕事のできない人」と評された藤原道綱と、のちに「賢人右府」と尊称される藤原実資との差である。

 更に彼らよりも下級の貴族の中には、道長クラスのTOP貴族の邸宅と、内裏との往復で何日も家に帰らず、睡眠をとるのは移動中の牛車の中などという者までいた。こうなるともう、昔はやった栄養ドリンクのCMの「ジャパニーズ・ビジネスマン、24時間戦えますか!?」の世界である。

 このような話は余り表には出てこない。仕事の上で苦心惨憺した話など、余程のことがないと彼ら自身が日記にも書かないし、何より他人が聞いてもおもしろいものではなく、物語にも取り上げられなかったためである。

 しかし実際には、「本当に大切な仕事は、忙しくて死にそうな奴に頼め」というのは、今も昔も変わらない。有能な者はいつの世でも多忙であった。

     (上賀茂神社楼門)

2005.12.21

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