エピソード 『藤原氏、受験には出ない人物像』

○その1 藤原薬子
 東宮であった後の平城上皇のもとへ入内してきたのは、薬子の娘だった。ところが10代の若き東宮は、ついてきたお母さんの方が気に入ったというのだからスゴイ!見た目は、娘のようだったというんだからなぁ。しかし、母子と関係ができるというのは、当時でもタブーで、父親の桓武天皇は激怒。薬子は追放されたが、桓武帝の死後、天皇となった平城と、関係が復活した。ところが、平城天皇は目が見えなくなってしまった。これは本来ならば、皇位につくはずだった早良親王(長岡京を捨てる原因となった人)の祟りだと、恐れた平城天皇は、薬子と兄仲成の反対を押し切って、弟の嵯峨天皇に譲位。気に入っていたもとの平城京へ移った。ところが、位を譲ったら本当に目が直ってしまった。そこで、重祚を企てる。一方、嵯峨天皇。宮中には、上皇の息のかかった者が何人もいて、情報が漏れてしまう。そこで秘書官としての蔵人頭を設置した。そして内密にことを進めて、突然、上皇側の公卿らを解任。これを知って怒った上皇が、旧平城京で兵を挙げた時には、事前に旧都は囲まれていた。薬子は毒を飲んで自害。仲成は射殺された

○その2 藤原良房
 『源氏物語』の主人公のモデルとも言われている。嫁さんは、嵯峨天皇の娘潔姫(もちろん一度臣下にくだされて源氏姓となっているが)。嵯峨天皇は、自分の娘をやるほど良房が気に入ったわけだが、どこに引かれたのか。答え。。それほど美しい貴公子だったそうな。光源氏のモデルと言われる所以である。世の中にはいるんですねぇ。「家柄も良く」「頭も良く」「顔も良い」という人類の敵みたいな奴が。

○その3 藤原時平
 日本を代表する大怨霊菅原道真が「天神様」と呼ばれて、国民的悲劇の主人公だから、時平を良く言う人はあまりいない。しかし、実際には非常に優秀で、国政の建て直しに旺盛な意欲を見せた。政治家としては実務に厳しい人で、「なぁなぁ」が嫌いであった。それは彼の死後、宇多上皇も羽根をのばして享楽追求に邁進し、国政はだらけたことでもわかる。39歳で早世したが、もしもっと生きていたら、別の人物像として伝えられていたかもしれない。
 大体、道真が左遷された後、宇多上皇はどうしたかというと...。「まあ、済んだことは仕方がない。」と言って、別に道真を呼び戻す努力もしなかった。分不相応に出世(右大臣)した道真の左遷は、時平だけではなく、当時の大部分の貴族からも支持(特に道真の後、文章博士となった三善清行などは絶対)されたと見て良い。時平の早世は、道真の怨霊のためと言われるが、当の時平自身は、道真の怨霊が荒れ狂い、清涼殿に落下する気配に、天皇をはじめ皆が震え上がっていた時に、さっと太刀を抜いて「生きていても自分の次であったではないか。今日、神となったとはいえ、この世では自分に遠慮なさるのが当然だ。」と叫んで睨み付け、ついに雷神を退散させてしまった(『大鏡』より) という。

○その4 藤原道長
 父兼家が摂政になるのは、60歳前。道長は21歳であった。これがある意味では幸いしたと言える。長らく不遇であった父は高位につくと、自分の四人の息子たちの官職を一気に引き上げた。道長は出世のコースレコードをつくる(後にこの記録を破ったのが伊周)。その道長が熱を上げたのが、時の左大臣源雅信の娘倫子だった。当時まだ官職の低かった道長に対して、雅信は娘を与えることに乗り気ではなかったが、倫子の母親が、道長を見て、「こいつは絶対偉くなる。私に任せておきなさい。結婚させてあげる。」とどんどん事を運び、道長は22歳、倫子24歳の時二人は結婚した。このお母さんの、人を見る目がいかに優れていたかは、言うまでもない。道長は倫子を終生、大切にした。道長の兄道兼などは、兄道隆が先に関白になったのが不服で、父兼家が死んだ時、酒飲んで宴会やったような奴だったから、道長は兄弟の中ではお行儀がいいほうである。倫子は、頼通彰子など子どもにも恵まれ、死に際しては頼通によって盛大な法会が営まれた。后妃にこそならなかったが、后妃となるより幸せだったといわれる。さて、道長君、晩年は「目が見えにくく、けがをしやすく、やたらに喉が乾いて水を飲んだ」という。糖尿病であろう。

○その5 藤原実資
 受験では「小右記」と一問一答である。受験にでる史料の中では、例の「この世をば・・・」の歌に対して、おべっかを使ったところが引用されるが、彼は学識に優れ、実力と気骨のある人物であった。道長の娘彰子が入内する時、公卿たちが大騒ぎして祝賀の歌を差し出す中、騒ぎ過ぎだと、道長の再三の要求にもついに一人だけ歌を出さなかった。「賢人右府」と呼ばれたが、泣きどころもあって、かなりの女性好きであった。実資の邸宅にはよい水がでる井戸があって、付近の下女たちが水を汲みにきていたが、実資は気に入った女を引っ張り込む癖があった。そこで、頼通は自分の召使の中で美人を選んで、水を汲みに行かせ、「実資に引っ張られたら、桶を棄てて帰ってくるように」と言い含めておいた。その筋書きどおりになった。後日、実資が頼通を訪ねて、いろいろ話した時に、頼通が「ところで先日の水桶を返していただけませんか。」と言って、実資を面させたという。

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