『平安時代編5 荘園と武士』

【1】 先土器時代 (P.1)(P.29~30)

1 国司の地方支配

 基本的語句を正確に覚えることが大切である。
(1)原因
 10世紀初めころ採用された徴税体系が、国内支配を国司に一任していたことから、国司の権限は強化された。
 具体的に言うと、本来国司は、中央政府の監督のもと政治を行政にあたるものであった。しかし中央財源となる庸・調は正丁を基準にかかる人頭税であったが、戸籍・計帳が機能しなくなると徴収できなくなる。そこで、国司に一定額の税の納入を請け負わせ、そのかわりに一国の統治をゆだねるようになったのである。「国司が徴税請負人化した」と言われる理由である。
 官人は除目(じもく=人事異動)の際に、国家に対する貢献度が勤務評定の基準となったため、彼らはその「功」を積むために財政確保を最重視した。
(2)実態
①任国に赴任する国司の最上位の者(普通は守)=受領→しばしば苛政を行う
②国司が任国に赴任せず、国司としての収入のみを受け取ること(及びそのタイプの国司)=遙任
 受領代表が、「尾張国郡司百姓等解文」の藤原元命と、「今昔物語集」で「受領ハ倒ル所ニ土ツカメ」と言ったとされる信濃守藤原陳忠である。
 国の守が任国にいない場合、派遣される代官を目代といい、国のトップ(守)が不在となった国衙を留守所、留守所をしきる現地の役人を在庁官人という。

 ところで地方行政官であるはずの郡司がなぜ上司にあたる国司を百姓と一緒になって訴えたりするのか。ここにも国司制度の変質が原因している。本来、郡司は徴税や文書作成などの実務を担っており、力を持っていた。しかし、受領が耕作と貢納を田堵(後述)に請け負わせ、徴税のためには、中央から下級官人を郎党(郎等)として率いて任国に下るようになった。郎党たちは官人だから事務能力は高い。そうなると郡司の役割はなくなってしまい、衰えていったからである。
 また国司は税率を自由に決めることが出来たので、成功のための財源確保のために高い税率を課した。そのため訴えられる国司は多数にのぼり、11世紀の初めに中央政府は最高税率を規定することとなった。
 なお、受領を訴える百姓も零細で貧しい農民ではない。後述する田堵負名である。実際、百姓たちに国司が殺害されたり、屋敷を焼き討ちされることもあり、収奪する受領も命懸けであった。

(3)官職の利権化
①私財を出して朝廷の儀式や造宮・造寺などの費用を請け負う=成功(じょうごう)←「功」(国家への貢献)を「成」す。ぼくのノートでは「私財を提供して官職を得る。」と書いているが、私財を提供する場はあくまで朝廷の儀式や造宮・造寺である。
成功によって同じポストに再任されたり、任期を延長される=重任(ちょうにん)
(4)受領の公領(国衙領)経営
 受領は公領(国司の荘園のような状態だったため国衙領ともいう)を新たな徴税単位(名)に区分し直し、その耕作を有力は農民に請け負わせた。この有力農民を田堵(←正しい字がでません。土偏に者に「、」です。という。受験のためにはまずは条件反射で用語を覚える。
「徴税単位=(名田)」
「名を請け負い耕作する有力農民=田堵
大規模経営=大名田堵」

「田堵に名の耕作を請け負わせる制度=負名体制」(田堵の中での耕作を請った者を、その名の負名という。)(発展「田堵と負名と名主の違い」へ)

 田堵は、律令制の租・調・庸にあたる官物や、雑徭などに相当する臨時雑役を負担した。これらと中世で出てくる名主との関係が、さらに受験生を苦しめる。(次節「平安時代編6 院政と平氏政権/平安末期の文化」で解説)
 国司は課税対象となる田地を名という徴税単位に区分し、その名ごとに税を徴収した。これが「徴税対象が人頭税から地代に変わった」と言われるものである。
 なお、公領からの税である官物・臨時雑役と、平安末期の荘園からの税である年貢・公事・夫役の違いなど、「地方政治の変化と徴税体系」の移り変わりについては、『平安時代編6 院政と平氏政権/平安末期の文化』に表を掲載しているので、参考にしてほしい。

 基本的にはこれでO.K.だろうが、論述や正誤問題に対応するために確認しておきたい。
 10世紀に受領が登場する。国司は四等官制だが、受領(守)以外はすることがない。そこで任じられても、どうせすることがないから任国へ赴かない(赴任を免除されている)タイプの遙任がでてくる。(ちなみに受領とは「解由状を受領する」ところからその名がある。)
 
さらに、受領も公領の経営は田堵との契約であったため、それを済ませば任国にいてもこれといってすることもない。そこで、11世紀後半になると、国司交替など限られた時以外は、目代と在庁官人に任せ、普段は在京する者が多くなった。つまり受領も遙任化するわけであり、ここに国司制度は形骸化した。

2.荘園の発達
(1)墾田永年私財法(743)以後できた、初期荘園という言葉も受験用語。荘園整理令が出された10世紀(最初は902年の延喜の荘園整理令)以後、寄進地系荘園へと移っていく。
 ちなみに開墾された土地(墾田)がすべて荘園になったわけではない。荘園とはあくまで墾田の中で、皇族、有力貴族、有力寺社などの所有する土地であり、地方豪族や有力農民が開墾した土地は、ただの墾田である。墾田の一部が荘園だと考えればよい。
(2)寄進地系荘園はキーワードとなる開発領主預所領家・本家を正確におさえる。預所とは、荘官のうち領主が派遣した最上級の荘官をいう。荘官の名称としては他に、下司、公文、荘司などがあるが、平氏政権や鎌倉幕府の地頭も荘官の名称であることは、知っておかなければならない。
 本家と領家のうち、実質的な荘園の支配権を持っていた者を本所という。もっとも受験では、本家領家の関係は、関係が理解できていれば解ける。
 なお寄進地系荘園は、教科書にも掲載されている「紀伊国桛田荘」の図からもうかがえるように、田畑だけでなく住居や山野河海を含む領域全体となっていった。(→このイメージがないと荘園公領制がわかりにくい。)
 史料としては、
肥後国鹿子木荘がよく用いられてきたが、この史料は山川の新課程『詳説日本史B』の補注にもあるように、開発領主→荘官側の権利を実態より拡大して記していると考えられ、最近ではこの史料をもとにして寄進地系荘園を説明するのは問題があるという指摘がなされており、今後受験での利用は減少していくと考えられる。
(3)荘園の独立
 荘園は、もともと輸租田(租を収める田)であった。(墾田の一部なのだから当然でしょう。)
 そのうち、太政官符民部省符によって不輸の権(不輸租の権の略だが、一般に不輸の権と言われる。)を得た荘園を官省符荘といい、国司免判によって不輸の権を得た荘園を国免荘という。そして、この不輸の権を認めてもらう手続き立券荘号という。(コラム 頂いた質問から(10)『官省符荘と国免荘』 参照
 一方、不入の権とは、国衙が派遣する検田使の立ち入りを拒否する権利であったが、のちには拡大解釈されて国検非違使などの、警察権力の立ち入りも拒否するようになった。
 
3.武士の成長
(1)武士の起源
発展「武士の起源」へ
(2)
武士団の構成
 家子郎党の区別(家子は一族、郎党は従者)をしっかり。「武士の棟梁」という言葉も受験用語である。代表が清和源氏桓武平氏であることは、中学レベル。
(3)天慶の乱
 地方武士の反乱であるこの「天慶の乱」(939~941)を一つの項目としたのは、この天慶の乱によって「武士」という身分が誕生したからである。
 武士の起源には諸説があるが,武士という身分は天慶の乱によって誕生した。9世紀末から10世紀初めにかけて、地方豪族が武装して受領の支配に抵抗するようになった。その取り締まりのために、政府は武芸に優れた中下級貴族を派遣した。現場に到着した中下級貴族は、武装した地方豪族たちを配下に組み入れることで治安を確保した。彼らは「兵(つわもの)」と呼ばれるようになる。
 そのようななか、天慶の乱は起こった。これを鎮圧したのが、「兵」たちである。天慶の乱は「地方武士の実力を中央に認識させる契機となった事件」(丸暗記)とされるが、詳しく言うと、私兵を常備する「兵」たちの実力に朝廷が注目し、軍事・警察を請け負わせるようになったのである。後述するが、平将門を討った平貞盛や藤原秀郷が率いた部下は、彼らの私兵であり、朝廷から与えられたものではない。ここに公権力に武装を公認された「武士」身分が誕生した。
 武士は2つのパターンに分かれることになった。一つは、「京を拠点に活躍して,受領を歴任する=武家(軍事貴族)。例:桓武平氏・清和源氏」
 もう一つが、「国衙のもとで受領の国内統治を補完する=地方武士。例:北条氏・三浦氏」である。
 かつては「承平・天慶の乱」と呼ばれていたが、朝廷側が反乱だと認識するのは、天慶2年に将門・純友が相次いで国司を襲撃して以降である。それまでは私戦(私的な武力衝突)と見なしていた。そのため、『詳説日本史』(山川)では、2016年の検定版以降、平将門の乱と藤原純友の乱という「東西の反乱をあわせて天慶の乱と呼ばれる」という表記になっている。

 「延喜・天暦の治」のど真ん中でおこったこの事件の基本は「誰が、何をして、誰に討たれたか」をセットでおさえることである。
①「平将門は、下総を根拠地として関東で反乱。新皇と称して、平貞盛藤原秀郷に討たれた。」
②「藤原純友は、瀬戸内海の海賊を率いて、伊予の国府や大宰府を襲撃して、源経基と小野好古に討たれた。」
(実際は、源経基は、純友を討つのに何の役にも立っていない。源経基は、追捕使となった小野好古の副官に任じられたが、純友は源経基が到着する前にすでに小野好古に討たれており、源経基は純友の部下を捕らえただけであった。しかし教科書では源経基が討ったことになっている(例外は清水書院)。それは、経基が清和源氏の祖であり、その後の源氏の進出とつなげるためだと考えられるが、ぼくとしては釈然としない)
 ちなみに、純友は、もと「伊予国の掾(じょう。国司の3番目)」であったが、「伊予国とは現在でいう何県か」という問いがあった。愛媛県の生徒なのに、千葉県と答えた者もいたが...。
 
(4)刀伊の入寇
 ポイントは、藤原隆家1019年は、藤原道長が「この世をば・・・」の歌を詠んだ翌年である。なお刀伊とは、遼の支配下にあった沿海州に住む女真族で、のちにを建国した。
(5)武士の登用
 ポイントとなる「滝口の武士」は、似た者3択である。「滝口の武士宇多天皇宮中警備」「北面の武士白河上皇院の警備」「西面の武士後鳥羽上皇承久の乱に際して、院の警備」(院政期・執権政治参照)

4.清和源氏の進出
 うろ覚えでは正誤問題に対応できない。
(1)清和源氏の祖の源経基が、藤原純友の乱を鎮定したことになっているからスタート。
(2)源満仲は、「安和の変で、源高明らを讒言し、摂関家のとなる」でO.K.
 ここからがポイントである。3つの事件名と人物を正確に。
(3)「平忠常の乱1028)=源頼信」は一番の目玉である。「源氏が東国へ進出する契機」となった。
(4)「前九年の役は、末法元年の前の年(1051)から始まり、源頼義義家父子が清原氏の援助を受け鎮圧」した。
(難問。鎮圧の対象となった安倍頼時は俘囚と呼ばれるが、これは朝廷に服属した蝦夷の意味である。清原氏も奥州藤原氏も俘囚のリーダーを称していた。)

(5)「後三年の役=源義家藤原清衡以降の奥州藤原氏の発展平泉)」奥州藤原氏3代(清衡→基衡→秀衡)は答えられるように。
 なお、この事件(後三年の役)の結果、「義家に東国武士からの寄進が集中して、政府があわててこれを禁止した」ことを、正誤問題で問うた大学もあった。(答えはです)また「後三年合戦図」の金沢の柵の場面(雁の列が乱れるのを見て、伏兵の存在を知る場面)は確認しておくこと。(エピソード「射よ、かれやー貴族の武士観ー」へ

(2005.10.26更新)
(2007.8.16更新)
(2010.3.2改訂)
(2010.8.7加筆)
(2010.9.23一部改訂)
(2013.1.1更新)
(2021.2.1天慶の乱に加筆)

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