『平安時代編2 弘仁・貞観文化』

2 弘仁・貞観文化 (P23〜24)

 この文化の特徴を一言で言うと、晩唐文化の影響をうけた、「異様に中国かぶれの文化」である。キーワードは密教文章経国思想である。
 密教とは、新たに伝えられた天台宗・真言宗のことである。
 そして文章経国思想とは、「文芸を中心として国家の隆盛をめざす」という考えであり、やはり中国の思想である。「文章経国大業、不朽之盛事」という曹丕(三国志の曹操の子で魏の初代皇帝)の言葉からきている。「文学は国を治めるのに匹敵する大事業であり、永遠に朽ちることは無い。」という意味であり、これを受けて貴族の教養として漢詩文をつくることが重視された。これにより貴族たちは漢字文化に習熟し、漢文を使いこなせるようになった。そしてこのことは、のちの国風文化の前提となった

(1)仏教、つまり密教について。
 密教が貴族に受け入れられていった理由は、「現世利益をはかる」ということに尽きる。現世利益というのは、死んだら極楽浄土へという浄土教とは180度逆の考えである。例えば空海が祈れば雨が降る、人が死ぬ(具体例はエピソード「空海対修円(守敏大徳)」へ)、といったもの。とにかくこの世で御利益がある。
@まず天台宗最澄比叡山延暦寺は小学校レベル。しかし最澄本人は密教者ではない。弟子の円仁円珍が密教化した。覚え方は「三人の珍事」。つまり山門派(延暦寺)=円仁円珍=寺門派(園城寺)である。
 天台宗は最澄の死後、大発展する。(生前は南都仏教の抵抗でなかなか主張を認められず苦しんだ。最澄が、大乗戒壇(天台宗独自の国家試験場)の設置を訴えた著書が、『顕戒論』。この訴えは最澄の死の直後、勅許で認められる)。俗に古典で「山」と言えば延暦寺のことだし、「寺」と書いてあれば園城寺のことを指すぐらいであった。天台宗の密教は台密と呼ばれる。

A続いて真言宗。空海=真言宗=東密(これは東寺の密教から)は基本。中心寺院の高野山金剛峯(峰)寺も小学校レベル。
 空海の作品は頻出。トップは能筆(達筆)を示す書簡の『風信帖』。次が彼の漢詩集である『性霊集』、ひっかけが漢詩論である『文鏡秘府論』(漢詩が『性霊集』←→漢詩が『文鏡秘府論』)高野山が和歌山県なのは後で、ボディーブローのように効いてくる。

(2)神仏習合
 キーワードは、神宮寺(寺社の境内に建てられた寺)。ただし、ここで注意。神仏習合の動きそのものは奈良時代からある。ここは、特に山川の教科書を使って、ある程度勉強している受験生が間違えやすい。と言うのは、山川の教科書には、弘仁・貞観文化の項に、神仏習合と黒ゴチで、記してあって、「すでに8世紀(つまり奈良時代)から、神社の境内に神宮寺をたてたりするようなことは行われていたが、この時代に強まった」と書いてあるから。
 また、真言・天台が山中に寺院を建て、修行の場としたことから、在来の山岳信仰と結びついて修験道が生まれた。修験道は山伏のイメージ(錫杖を持って法螺貝を吹いている)でよいと思う。奈良県吉野の大峰山や白山が道場として有名だが、実はぼくの地元石鎚山も修験の霊場であり、今でも登山道でよく山伏の姿をした人と出会う。(平成元年に愛媛県でインターハイが行われたとき、登山競技の知識(筆記)の問題で、修験道の開祖と呼ばれる人物名(役小角)が問われた。難問であろう。)

(3)建築
 室生寺五重塔室生寺金堂。「自由な伽藍配置」とか言うが、要は山の中の限られた場所に建てるため、伽藍配置がこだわってられなかったわけである。写真も注意。
 そこで!写真で出題されたときの「薬師寺東塔」と「室生寺五重塔」の見分け方。答。「薬師寺は平野にあるので写真のバックが白い。室生寺は山の中にあるので、バックが黒い。」(ぼく、大まじめですよ。)
 かつて「室生寺が女人高野とよばれた理由を記せ。」という入試問題があった。答。「女性の参詣が許された、真言宗の寺院だから。」

(4)彫刻
 
キーワードは、一木造・翻波式。出題頻度順に、「観心寺如意輪観音像」(写真チェック!)・「薬師寺僧形八幡神像」など。僧の形をした八幡神の像など、まさに神仏習合そのものである。

(5)絵画はいわゆる「密教絵画」である。
 「曼荼羅曼陀羅)=仏の世界を独特な構図で・・・」と「園城寺不動明王像黄不動」をチェック。「高野山不動明王像=赤不動」はやや難問。

 最初に述べたとおり、この時代は「文章は経国の大業」という中国の思想(文章経国思想)に基づいて、史書・漢詩文の編纂が盛んであった。教科書には作者として、空海や菅原道真のほか、小野篁・都良香が挙げられている。(エピソード「漢詩文の達人は、恐い人ばかり」へ

(6)史書
 「六国史」は順番に全部言えるようにしておきたいが、奈良時代の史料だと分かって出典を問われたら、脊髄反射で続日本紀と答える正誤問題を1つ、「古事記は『六国史』ではない」は
 菅原道真による「六国史」の部門別分類書が「類聚国史」である(難問)。

(7)漢詩文
 最初の勅撰漢詩集は「凌雲集」 ⇔ 最初の漢詩集は「懐風藻」(天平文化)の正誤問題に注意。「勅撰漢詩集のダミー」となるのは、十中八.九、「性霊集」(空海個人の漢詩集であって勅撰ではない!)である。
 「文華秀麗集」、「経国集」を書かされることは少ないと思うが、この時代の勅撰漢詩集だということは知っておきたい。

(8)書道
 能筆家の三筆は全て覚えないと意味がない。嵯峨天皇空海+「風信帖」はいいとして、橘逸勢承和の変(次項参照)の関係から聞かれる。唐様という書風も問われる。
 「風信帖」は空海が最澄にあてた書簡だが、最澄が弟子の泰範にあてた「久隔帖」を聞くという超難問もあった。(滅多にない)

(9)教育
@大学で学ぶ子弟のために、有力な諸氏が設けた寄宿舎である大学別曹は、全て覚えないとだめ。(和気氏=弘文院、藤原氏=勧学院、在原氏=奨学院、橘氏=学館院) 最低でも、藤原氏=勧学院は絶対である。最も整っていた
A空海の「綜芸種智院」は庶民教育と一問一答。儒教と仏教を教えた。

(10)説話
 景戒によって日本最古の仏教説話集である『日本霊異記』が書かれた。

(2003.2.23改訂)
(2005.10.22更新)

(2013.1.1更新)

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