頂いた質問から(25)


宇多天皇と遣唐使中止

 9月の下旬、このホームページの記述について、50歳代の方から次のような質問を受け取りました。
 
【頂いた質問】
 
通史『平安時代編3 摂関政治の確立』の質問です。
 「宇多天皇の時代」の説明に、「
藤原時平の陰謀(道真を遣唐大使とする)を、カウンターでつぶした」とありますが、これは何のことを言っているのかをご教示頂けますか。

 指摘を受けたのは、下の記述です。

(5)宇多天皇の時代
(前略)基経死後、宇多天皇は摂関を置かず(寛平の治ともいう)、菅原道真を登用。これを遠ざけようとした藤原時平の陰謀(道真を遣唐大使とする)を、カウンターで潰した(894年、遣唐使廃止)。


 
承和5(839)年に遣唐使が派遣されて以降、50年以上実施されていなかった遣唐使を派遣しようとしたのは、宇多天皇に重用されて急速に昇任して公卿になった菅原道真を、遣唐大使にして唐に派遣することで、体よく中央政界から追放しようとする藤原時平ら藤原氏の陰謀であった。宇多天皇は遣唐使そのものを廃止することで、藤原時平の思惑を潰した。」という説をぼくが知ったのは、20歳代に見た某教育テレビの高校講座だったと記憶している。それを、22年前にこのホームページを開設した時、「藤原時平の陰謀(道真を遣唐大使とする)を、カウンターでつぶした(894年、遣唐使廃止)」と表現して、修正しないままになっていた。
(このホームページを開設した頃は、まだ教科書にも「遣唐使の停止」、参考書では「遣唐使の廃止」という表現があった時代でした。)

 この「藤原氏の陰謀+宇多天皇のカウンター」という説は戦前からあり、例としては、

 
当時は宇多天皇が藤氏を押えて道真を大いに抜擢せんとする際であったから、藤氏の人々は、内々名を遣唐大使の重任にかりて道真を海外へ追いやり、あわよくば溺没せしめて、その隙に自家の勢力を挽回しようとしたが、宇多天皇と道真はその裏をかいて、わざと口実を設けて停止した。(西岡虎之助「遣唐使廃止の年代に関する疑問」1923年)

などがある。

 また、菅原道真は上表文(意見書)の最後に「中瓘の録記を広く公卿・博士に下して、詳細にその可否を定めてください」と記していたが、実際は
公卿・博士にはかることなく、遣唐使の中止は宇多天皇と側近のみで決定された。このことも「宇多天皇のカウンタ-」らしく思える。
 でも、今のぼくは「藤原氏の陰謀を宇多天皇がカウンターで遣唐使廃止」説は、誤りだと考えています。20年以上、放置して本当に申し訳ありませんでした。 


 現在のぼくの考えを下に述べます。  

  
  
①から、この遣唐使派遣の計画は、唐の温州の長官からの朝貢要求がきっかけであり、藤原氏の発案ではなかったことがわかる。

②7月22日に中瓘宛てに菅原道真が作成した文書には、次のことが書かれている。
*「唐では久しく兵乱が続いていたが、今はやや安定しているという(だから録記を送ることができたのだろう)。あなたも無事であることを知って喜んでいる」という中瓘を労う言葉が記されている。
*中瓘の録記には「温州刺史朱褒が特別に(遣唐使派遣を求める)使者を日本に送った」とあり、朱褒の宿願に心は動くが、陪臣である朱褒が派遣した使者を受け入れることはできない。しかし、朱褒の宿願は決して疑わない。
*中瓘が遣唐使を派遣すべきではないと述べるのは、まことに道理にかなっているが、遣唐使の派遣を止めようとしても止められないのである。黄巾の乱で唐が衰退する中で、温州刺史朱褒だけが皇帝に忠勤を尽くしていると唐の商人からよく聞いている
*日本ではこの数年は度々災厄が起こり、日常の具(そなえ)ですら準備が難しい。
準備が整えるまでに派遣が延期になっても、朝廷の議ではすでに遣唐使派遣は決定されているので、朱褒に問われたらこの事情を述べること。
     ↓
唐の皇帝への忠誠を果たそうとする朱褒の意志は道理にかなっていて、遣唐使派遣を断ろうにも断り切れない(と解釈できる)
〇唐の商人の噂でも「朱褒を忠臣と聞いている」と述べたのは、
菅原道真の遣唐使派遣への積極性が伺える
〇承和5年(839)年の遣唐使も、使者が任命されたのは承和元年1月であったが、渡航までに2度中止になっている。

③8月21日に菅原道真は遣唐大使に任じされ、そのまま寛平9(897)年に権大納言になるまで遣唐大使の任にあった。副使紀長谷雄は、延喜2(902)年に参議に昇進するまで遣唐副使の任にあった。
承和5年の遣唐大使藤原常嗣も承和元年に任命されてから、帰国するまで6年間ずっと大使であった

④9月14日の建議書には、次のことが書かれている。
*古い記録を調べると,度々の遣唐使は海を渡る途中で命を落としたり、賊に遭遇して殺害されたりしている。しかしながら、唐に到着したら危険はなかった。
*中瓘の録記には「大唐の凋弊」が詳細に記されており、今回はこれまでになかったような事態も想定しなければならない。
*中瓘の録記を広く公卿・博士に下して、詳細にその可否を定めてもらいたい。

⑤に「停遣唐使」と記されているが、最後の遣唐使になった承和5(839)年の遣唐使派遣の際、派遣に先立って唐の商人を大宰府から入京させる勅が出されていたことに倣って、宇多天皇は寛平8(896)年に自ら海商を接見している。
     ↓
宇多天皇は、これ以降も遣唐使派遣については前向きだったことが伺える。

 では、
なぜ菅原道真は7月22日の段階では、派遣に積極的な姿勢を示す文書を作成していたのに、わずか2か月弱で遣使の再審議を求めたのか?

 ヒントになるのが、次の部分だと思う。

⑴ ⑤のことからも遣唐使派遣を進めた主体は宇多天皇だと考えられる。
⑵ ②の7月22日に道真が作成した文書
〇「唐では久しく兵乱が続いていたが、今はやや安定しているようだ(だから録記を送ることができたのだろう)」
〇中瓘の録記の内容を取り上げているのは、
朱褒が使者を送ったことのみであり、大唐の凋弊には全く触れられていない。    
⑶ ④の9月14日の建議書
〇中瓘の録記には「大唐の凋弊」が詳細に記されており、今回はこれまでになかったような事態も想定しなければならない。
〇中瓘の録記を広く公卿・博士に下して、詳細にその可否を定めてもらいたい
 
 これを繋げていくと、次のような推察ができる。

 
遣唐使派遣を進めたのは宇多天皇であり、その意向に沿って9月22日の文書を作成したが、その時点では菅原道真は中瓘の録記の詳細を知らなかった。8月21日に遣唐大使に任命されたことで、中瓘の録記の全体を読むことができた。そこで初めて「大唐の凋弊」の状態を詳細に知り、現状での派遣は余りにも危険であると認識した。そして公卿・博士たちも中瓘の録記の全体を読めば、自分と同じ結論を出すと考えて、9月14日の建議書を提出した。宇多天皇も情況が好転するまで派遣は中止する決定をした。

 
これが、今のぼくの考えである。

 なお、遣唐使中止については、他にも「対新羅関係の極端な緊張説」というのもある。寛平5~6(891~892)年は新羅の賊の侵寇が盛んで、政府はその対策に苦慮していた。そのため派遣を中止したというものである(寛平7年以降は、新羅の賊の記事は見られなくなる)。
 また、道真が再審議を求める建議書を出した5日前の9月9日に重陽宴が開かれた。その時、道真が「遣唐大使となって、渡唐することになって動揺している心を告白する」漢詩を詠んだことで、「宇多天皇が道真の心情を汲んで、派遣を中止したという説」もある。これについては、文学者である滝川幸司氏が道真の漢詩を誤解しているとして、別の解釈を提示して「そもそも天皇が主催する場で、天皇を賛美することが通例の宮廷詩宴で、国家事業たる遣唐使の大使に選ばれた道真が、渡唐に対する不安を述べるなどということは考えがたいのではないか。」と述べられている。

 
 
 2024.10.1

コラム目次へ戻る
トップページへ戻る
通史編「飛鳥時代~奈良時代編5 遣唐使と天平文化」
通史編 「平安時代編3 摂関政治の確立」