発展 『藤原氏って何で衰えたんですか?』
    ー東大入試問題に学ぶ 2ー
 (1983年第1問)

 2学期末考査の発表が出た翌日、放課後3人の生徒が質問に来た。(今回の試験範囲は、院政の開始から鎌倉幕府滅亡までである。)
 しかし質問に来たとは言っても、本当は3人とも授業内容はかなり理解できていて、まぁ、「顔見せ公演」(?)に来たようなものであった。

 その中で一人の生徒が、「藤原氏って何で衰えたんですか? あっ、それが院政?」と言った。

 この生徒は、前回の「鎌倉時代の将軍って何ですか?」と聞いた生徒と同一人物であり、つまりは「なんで飛鳥浄御原令なんかつくったんですか?」と聞いた子である。

 後三条の即位に関して山川の『詳説 日本史』には、
藤原頼通の娘には皇子が生まれなかったので、時の摂政・関白を外戚としない後三条天皇が即位した。個性の強かった天皇は、大江匡房らの学識にすぐれた人材を登用し、強力に国政の改革にとり組んだ。」(P.79)
と書かれている。普通に考えれば、

摂関政治が衰えたのは、藤原頼通が外戚政策に失敗し、摂関家を外戚としない後三条天皇が即位して専制政治の端緒を開き、次の白河の代になって院政が開始され、法や慣例を超えて親政を行ったから。

というのが、基本的な回答なのだろう。
 
 しかし、たとえ後三条天皇が道長ー頼通の系譜を引いていなくても、
母親がいる限り外戚そのものは存在するはずであり、道長の系統が力を失い、別の血脈が権力を握ったというのなら分かる。それなのに

「摂関政治が衰退したのは、頼通が外戚政策に失敗したから。」というだけでは、説得力に欠ける。 

 
ぼくは息を吐いて、「ホントにおまえは鋭いなぁ。」と言って、隣の準備室へ東大の過去問集を取りに行った。


<東京大学1983年度第1問>

 次の文章は、数年前の東京大学入学試験における、日本史の設問の一部と、その際、受験生が書いた答案の一例である。当時、日本史を受験した多くのものが、これと同じような答案を提出したが、採点にあたっては、低い評点しか与えられなかった。なぜ低い評点しか与えられなかったかを考え(その理由は書く必要がない)、設問に対する新しい解答を150字〔句読点も1字に数える)以内で記せ。


(受験生の答案は省略)

 次の(ア)〜(ウ)の文章は、10世紀から12世紀にかけての摂関の地位をめぐる逸話を集めたものである。これらの文章を読み、下記(エ)の略系図をもとにして、設問に答えよ。

(ア) 967年、冷泉天皇が即位すると、藤原実頼が関白となった。しかし実頼は、故藤原師輔の子の中納言伊尹ら一部の人々が昇進をねらって画策し、誰も自分には昇進人事について相談に来ないといって、自分が名前だけの関白にすぎないことを、その日記のなかで歎いている。

(イ) 984年、花山天皇が即位し、懷仁親王(のちの一条天皇)が東宮となったとき、関白は藤原頼忠であったが、まもなく故伊尹の子の中納言義懷が国政の実権を握るようになった。かねがね摂関の地位をねらっていた藤原兼家は、自分が将来置かれるであろう立場を考えたすえ、しばらくのあいだは,その野望を抑えることにしたという。

(ウ) 1107年、堀河天皇の没後、鳥羽天皇が即位したが、藤原公実は、自分の家柄や、自分が大臣一歩手前の大納言であること、それに摂関には自分のような立場の者がなるべき慣行があることなどを理由に、鳥羽天皇の摂政には自分をするよう、天皇の祖父の白河上皇に迫ったが、上皇はこれを聞きいれなかった。

(エ)略系図


(注)1,2,3…13は、本系図における皇位継承順、(1)(2)(3)…(11)は、同じく摂関就任順を示す。

〔設問〕

藤原実頼・頼忠が朝廷の人々から軽視された事情と、藤原公実の要求が白河上皇に聞き入れられなかった事情とを手がかりにしながら、(ア)(イ)のころの政治と(ウ)の頃の政治とでは、権力者はそれぞれ、どのような関係に頼って権力を維持していたかを考え、その相違を150字以内で述べよ。


 
前回同様、ぼくと生徒の会話の実況中継である。

野澤:「(ア)の資料に書かれている”実頼は関白なのに誰も人事の相談に来ない。その一方で、伊尹が張り切っている理由”は系図から読み取れるよね。」
生徒:「伊尹は冷泉天皇の后である懐子の父親だから、将来懐子が皇子を産んだら外戚となるけど、実頼はその可能性がないから。」
野澤:「そのとおり。で、(イ)の資料で”のちの一条天皇が東宮に立つと、兼家が「将来のことを考えて、今はおとなしくしておこう。」と考えた理由”も系図から読み取れる。」
生徒:「狙ったとおり伊尹の家は花山天皇の外戚となった。関白には頼忠がなったけど、天皇の外戚ではないので実権はなかった。実権は外戚である伊尹の息子義懷が握った。でも順調に一条天皇が次の天皇として即位したら、兼家は外戚となるので自分が権力を握れると思った。それまでの我慢だから、今はおとなしくしておこうと思った。」
野澤:「Nice!!。そのとおり。つまりこの時代はたとえ摂政関白であっても、天皇との外戚関係がなければ実権を持つことはできなかったことが分かる。」
生徒:「なんで頼忠は外戚じゃないのに関白になれたんですか?」
野澤:「それはね。兼通と兼家の兄弟の争いって授業でやったでしょう。無茶苦茶仲の悪い兄弟で、関白だった兼通が死の間際に除目をやって、関白職を頼忠に譲って、兼家に対して「ざまあみやがれ、おまえなんか絶対関白にしてやるもんか!」と言って、間もなく死んだという話。血筋から言えば頼忠は関白になってもおかしくはない。藤原北家内部の権力闘争も絡んで彼は関白になれた。でも外戚じゃなかったから、実権を握ることはできなかった。つまり摂関政治の時代は、権力を握るためには何が不可欠であったかというと?」
生徒:「天皇の外戚であること。」

 
後三条天皇は”親政”と言われるため摂関がいなかったように思われがちだが、本当は関白はいたのである。系図中に(10)頼通の次に(11)教通とあるように、頼通が関白を辞した後、教通が後三条、ついで白河の関白になっている。しかし後三条は関白藤原教通に実権を握らせなかった。それはやはり外戚関係がなかったからできた技であった。(後三条天皇の母親は禎子内親王、父親は後朱雀天皇であり、両親ともに道長の孫ではあったが、後三条と関白教通との間に外戚関係はなかった。)

 
しかし公実は鳥羽の外戚である。理屈から言うと、(ウ)の資料にある公実は摂関になれるはずだ。それなのになぜ、白河上皇は拒否したのか。ここに時代の流れがある。

野澤:「そもそも院政って何で始めたのかというと?」

生徒:「天皇が自分が望む直系の子どもに皇位を継がせるため。」

 このいきさつに関しては、
東京書籍の教科書(『日本史B』)が詳しい。
後三条天皇の次に即位した白河天皇は、当初後三条の政策を継承した親政を行った。しかし、後三条は、天皇家の血統をより濃く受けついていることを理由に、白河の弟たちが皇位を継承することを望んでいた。そのような事情を背景として、白河天皇は、自分の直系の子孫への皇位継承を実現するために1086(応徳3)年、幼少の堀河天皇に譲位し、みずからは上皇(正式には太上天皇)となり、堀河天皇の政治を後見する院政を開始した。(P.84)

 摂関政治の時代は、母方の実家の力がものを言ったので、パワーバランスの結果、天皇が自分が望む息子に皇位を継がせられるとは限らなかった。そのなごりのようなものは後三条の時代にも実はあった。それに対して院政とは、天皇が自分の血を引く男子に間違いなく皇位を継がせるために始まった。しかし
引退した元天皇が、なぜ政治を仕切れるようになるのか。この点については、実教の教科書にズバリ記されている。

院(上皇)は天皇家の家長(「治天の君」)として、政治の実権をにぎった。」(実教『日本史B』P.100)

 かくして、院と摂関家の関係は次のように変化していく。
院政は、自分の子孫の系統に皇位を継承させようとするところからはじまったものであるが、法や慣例にこだわらずに上皇が政治の実権を専制的に行使するようになり、(略)そのため摂関家は、勢力の衰退を院と結びつくことで盛り返そうとつとめた。」(山川『詳説 日本史』P.81)

政治的制約の少ない立場にたつ上皇は、直系の天皇を後見しながら専制的な政治をおこない、摂関家を圧倒した。(略)院政のもとで、上皇の意思を伝える院宣が権威をもち、摂政・関白の地位も上皇に左右されるようになった。」(実教『日本史B』P.101)

摂政・関白の地位も上皇が左右するようになり、摂関家は院と結びつくことで有力貴族としての地位の維持を目指さなくてはならなくなった。」(東京書籍『日本史B』P.85)

 東大の問題に戻ろう。(ア)、(イ)の時代に権力者が権力を維持するために必要とした関係は、ずばり「
天皇との外戚関係」である。それに対して(ウ)の時代の権力者は文句なく上皇であり、その関係は「天皇家の家長として直系の天皇を後見する立場」である。

○(ア)(イ)の時代の権力者は摂政関白であったが、権力を維持するためには、天皇との外戚関係が重要であり、摂関といえどもそれがなくては実権を手にすることは出来なかった。また、摂関の地位も外戚関係によって移動した。
○(ウ)の時代は、天皇家の家長である上皇が、直系の天皇を後見しながら治天の君として法や慣例を超えて専制的な政治を行っており、天皇との外戚関係があっても、権力を持つことはできなかった。(権力が確保できるとは限らなかった。)

 東大の問題への解答を作成するためには、この点を150字でまとめればよい。

 でもここでも疑問が残る。天皇が自分の気に入った息子に皇位を譲ってやりたいと思うのは、摂関政治の時代でも同じだったはずだ。でも、当時は不可能で院政期には可能になったのはなぜか。そこには
家族形態の変化がある。

野澤:「摂関政治の時代の結婚形態って何だった?授業のネタに使った『なんて素敵にジャパネスク』にも出てきた。」
生徒:「招婿婚。」
野澤:「すばらしい。高彬君は瑠璃さんの家に訪ねてくるんだもんね。では鎌倉時代は?」
生徒:「・・・??」
野澤:「質問の仕方が悪かったね。鎌倉武士の社会では、結婚形態は?」
生徒:「嫁入婚?」

 
教科書では鎌倉時代の武士社会の様子として、嫁入婚が一般的となったと記されている。しかし、これは武士社会のみに限った現象ではなかった。山川の教科書には貴族社会で外戚が重要な意味をなした理由として、「結婚した男女は妻側の両親と同居するか、新居を構えて住むのが一般的であった。」(P.62)と書かれている。問題はこの”新居を構えて住む”という部分である。妻の実家に同居するのと、独立して家を持つのとは違う。
 摂関政治の時代の貴族男性は、いわゆる「
マスオさん」状態であった。子どもの名字は「フグ田」だが、妻の実家「磯野家」に妻の両親と一緒に住んでいる。だからタラちゃんは、おじいさん子になる。しかし、もしマスオさんが新居でサザエさんとタラちゃんとの3人暮らしを営んでいれば、仮に新居の費用を波平さんが出していたとしても、タラちゃんへの影響力は少なくなる。この新居の費用を男性側が出せば、これは嫁取婚である。
 大ざっぱに言うと、妻問婚→招婿婚(婿取婚)→嫁取婚→嫁入婚となる。子どもへの母親側の家の影響力が弱まり、父親側の力が増していく。院政期はちょうどこの過渡期にあたっていた。
 後三条や白河が、専制政治に成功した背景には、この家族形態の変化という時代の流れも味方したと言える。

 ただし、その後、平清盛は安徳天皇の外戚として権力を握っており、外戚の地位がまったく意味を持たなくなったわけではない。

 なお、野澤による「東京大学1983年第1問」の解答例は次のとおりである。

<野澤の解答例>
(ア)(イ)の時代は、摂政関白が権力者であったが、権力維持のためには天皇との外戚関係が重要であり、摂関も外戚の地位とともに移動した。一方(ウ)の時代は、上皇が天皇家の家長として直系の天皇を後見しながら、治天の君として法や慣例を超えて専制的な院政を行っており、天皇の外戚の地位は、権力確保と直接は結びつかなかった。(150字)

2010.11.23


本編へ戻る
窓・発展目次へ戻る
トップページへ戻る