『平安時代編4 国風文化』

【1】 先土器時代 (P.1) (P.27〜28)

 最初に一言。「菅原道真の建議で遣唐使が廃止されたことによって、日本独特の国風文化がおこった」という話を聞くことがあるが、これは誤りである。
 菅原道真の提案によって、結局、その時の派遣は中止され、その後、間もなく唐は滅亡した。しかし、唐が滅んだ後も、中国の商人は来航して、中国文化を伝えている。弘仁・貞観文化のところでも触れたが、国風文化はあくまで、それまで長い期間をかけて受け入れてきた大陸文化を踏まえて、その上に日本人の好みや心情を加え、日本の風土にも合うように工夫してつくりだされたものである。

国文学の発達
(1) かな文字
 漢字を簡略化したのが平がなで、一部をとったのが片かなというところからスタート。
(2) 和歌
 紀貫之を撰者とする最初の勅撰和歌集である「古今和歌集」が、醍醐天皇の勅(905年)で作られる。紀貫之による序文、いわゆる「かな序」は史料で出ることがある。
 これ以後、鎌倉時代に後鳥羽上皇の勅で作られた「新古今和歌集」までを八代集という。「せん!」(校則みたいだけど)→ 「古撰→拾拾遺→葉→花→載」+新古今です。
 
藤原公任の「和漢朗詠集」はやや難問。
 
六歌仙も、しっかり覚えたい。出題頻度は六歌仙という言葉と、伊勢物語モデルとなった在原業平が一番でしょう。(かつて大阪大学で、僧正遍昭の歌「あまつかぜ雲のかよひぢ吹きとぢよ乙女のすがたしばしとどめむ」が分かっていないと解けない問題があったと記憶している。)

   

(3) 物語
 「竹取物語」から始まる伝奇物語と、「伊勢物語」から始まる歌物語の流れをおさえる。この集大成が、「源氏物語」である。(エピソード「平安文学」へ)(エピソード「これが現実?ー蟲愛づる姫君ー」へ)
(4) 日記・随筆
 作品名と作者でけでなく、内容もおさえる。「土佐日記紀貫之最初のかな日記で土佐から京都までの紀行文」、「蜻蛉日記藤原道綱の母藤原兼家との結婚生活」、「更級日記菅原孝標の娘=貴族の娘の回顧録」、「枕草子清少納言は言うことなし」
 ここで絶対的なキーワードを2つ。「かな文字が、発達しても公文書は漢字だった。」そして、「女流文学が発達した理由」は「中流貴族が、藤原氏と関係を持つために、娘を入内する藤原氏の娘の女房にするために、教養を積ませたため。」である。(コラム「国風文化と女流文学」へ

Dその他
 最初の百科事典である「和名類聚抄」は源順と一問一答であるが、難問。

2 仏教
 キーワードは、「浄土教」と「末法思想」である。
(1)浄土教と末法思想
 浄土教は阿弥陀仏を信仰する。10世紀中頃、京都で念仏を説いた空也注意!空也は国風文化の人。でも、六波羅蜜寺にある空也上人像は鎌倉文化)と、10世紀後半「往生要集」を著した源信(恵心僧都)は絶対。「往生要集」は、史料の書き出しも覚える(エピソード「往生要集」へ)。
 この浄土教が流行した背景には、1052年から始まるとされた末法思想があった。
 お釈迦様が亡くなってから1000年間は、仏法が栄えて世の中Happy(正法)→その後の1000年は、仏法が衰える(像法)→さらに1000年たつと、世も末の末法となるというもの。1052年に末法に入ると考えられていた。(詳しく言うと、正法とは、仏陀の教え()・正しい修行()・悟り()の全てがある時代。像法とは教・行が存在する。末法とは教のみであって、行も証もない時代である。鎌倉文化の項で浄土真宗の開祖親鸞の著書『教行信証』をあげているが、まさにである。)
(2) 往生伝
 「往生伝」って何?答え。「見事、極楽往生を遂げた人のインタビュー集」である。(どうやって聞き取りしたんやろな・・・) 代表が慶滋保胤の「日本往生極楽記」
 しかし、勘違いしてはならないのは、浄土教の流行の一方で、真言・天台の2宗は、圧倒的な勢力を誇っていた。

3 その他の信仰
 この時代、神仏習合が進展し、「日本の神様は、実はインドの仏様だったのよ」という「本地垂迹説」が生まれた。また、菅原道真のように「恨みを飲んで死んだ人間が祟る」それを「ひぇ〜、悪うございました」といって祭ると神様になって守ってくれるという御霊信仰が盛んとなり、そのための儀式である御霊会(ごりょうえ)が行われた。
 貴族は迷信家であった。今、流行りの陰陽道は、「方違凶の方角を避ける」と「物忌引きこもってつつしむ」の区別をしっかりすること。

美術・建築
 基本。弘仁・貞観文化は密教美術で中国かぶれ。国風文化は浄土教美術で日本風。
(1)絵画
 日本の風物を題材とし、なだらかな線を持つ大和絵が描かれるようになった。以前は巨勢金岡が祖とされていたが、今は?なので、巨勢金岡は代表的な画家と覚えたのでよい。
 また、浄土教美術として「見事、極楽往生を遂げようとしている人を、阿弥陀如来が迎えに来る」場面を描いた来迎図が描かれた。代表が「高野山聖衆来迎図
(2)彫刻と建築
 彫刻と建築は連動している。彫刻は阿弥陀如来像の大量生産のため、バラバラに部品をつくって合体させる寄木造の技法が用いられれた。「寄木造定朝平等院鳳凰堂阿弥陀如来像」がキーワードである。これらの阿弥陀如来像をおさめる阿弥陀堂建築が盛んとなり、その代表が平等院鳳凰堂。正誤問題を1つ、「この世に極楽浄土を再現したといわれた、藤原道長の法成寺は現存していない
(3)書道
 和様の名手として三蹟(三跡)。「藤原佐理離洛帖」「藤原行成世尊寺流の祖」「小野道風秋萩帖」。なお、三蹟の作品は、大和絵と同じように、屏風などに書かれて、調度品とされた。
(4)蒔絵
 蒔絵
って何?答え。漆塗りの工芸品。絵じゃないよ。

貴族の生活
 ポイントを簡単に。寝殿造の住居は、白い!檜皮葺であって瓦葺ではない。畳は上座だけで、敷きつめていない。円座(わろうだ)というポータブルの座布団を使っていた。寝殿造の各パーツの名前と構造(寝殿対屋釣殿渡殿中島)も出る。一度自分でイラストを書けば覚える。
 貴族男子の正装は束帯、略装は衣冠。貴族女性はいわゆる十二単。庶民は水干を着ていた。
  結婚形態は、かつての妻問婚から、女性の家に男が入る招婿婚となった。(エピソード「女性史研究のパイオニアー高群逸枝と四国遍路ー』へ)

  

(2004.6.20加筆)
(2005.10.23更新)
(2006.11.09誤記を修正)

(2013.1.1更新)
(2017.10.28加筆)

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