『織豊政権編2 織豊政権』

(P.62〜64)

織田信長の統一事業
 信長は、授業では2時間でも3時間でも話の尽きないエピソードの多さに反して、入試問題になりにくい。出ても秀吉問題へのつなぎがほとんどである。(エピソード「御狂ありてー織田信長ー」へ)
 最も出るのは足利義昭を追放して室町幕府を滅亡1573)させたことと、安土楽市令の史料である。
 後は「桶狭間(今川義元)→姉川(浅井・朝倉)→長篠(武田勝頼)→本能寺の変(明智光秀)」の順番と、延暦寺焼討ち石山戦争(対顕如)という寺社勢力との対決である。ただ順番も、室町幕府滅亡1573)と長篠合戦1575)の順序が分かっていれば解ける場合が多い。「天下布武」の印判を使ったこともたまに出るね。

豊臣政権
 秀吉も統一までのエピソードは2〜3時間はしゃべれるほどあるが、こちらは政策面に見るべきものが多くて、統一事業はあまり出題されない。この病気じゃないかと思うほどの女好きを、ぼくはあまり好きではないのだが、彼が日本史上に果たした役割の大きさは、認めなければならない。(エピソード「人たらし秀吉は猿か?」へ)

(1) 統一過程
 明智光秀を山崎の戦いで討ったことで発言力を増し、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、信長の後継者としての地位を確立した。その後、石山本願寺の跡地に大坂城を築いて拠点とした。
 問題はここからである。小牧・長久手の戦いで徳川家康・小田信雄の連合軍と和睦するまでは、彼の狙いはどうであれ、表向きは織田家の後継者争いである。
 しかし、翌年、関白となった秀吉は、天皇から全国の支配権を委ねられたと称して、戦国大名たちに停戦を命じ、領土の確定を秀吉に任せることを強制した。いわゆる惣無事令である。難しい内容に思えるかもしれないが、早い話が、全国に「喧嘩両成敗」の原理(私闘を禁じ、裁定を領主に委ねる)を持ち込んだのである。
 これに違反したという大義名分で、四国平定(長宗我部)、九州平定(島津)、小田原平定(北条)が実施されるのである。小田原平定の際に伊達政宗ら東北の大名たちが服属して全国統一が完成した。
 つまり、いわゆる「〇〇平定」は、秀吉が関白に就任した後のことである。関白は五摂家(一条・二条・九条・近衛・鷹司)というTOP藤原氏でなければなれない。ここは近衛家の養子にしてもらったのである。翌年には太政大臣となり、豊臣の姓を与えられた。この時、五摂家に豊臣を足して六摂家にしてもらった(受験にはでない)。

(2) 伝統権威の利用
 後陽成天皇を招いた場所が聚楽第であることは、出来なければ自分だけだと落ち込んで良い。ここで諸大名に天皇と自分への忠誠を誓わせた。

(3) 組織
徳川家康
などの大大名は五大老であり、石田三成ら腹心の部下が五奉行である。

(4) 経済基盤
 正誤問題注意。直轄地を蔵入地というのは一問一答。
 豊臣政権は佐渡相川の金山や石見大森の銀山など、主要鉱山を直轄したので、天正大判という巨大な金貨を鋳造できた。ただし後藤徳乗につくらせたこの貨幣は14pもある。つまり通貨として作られたのではなく、言ってみれば贈答用であった。堺・京都・大坂・伏見などの主要都市を直轄したことは言うまでもない。

(5) 超大物 太閤検地1582〜)(窓 『設問「太閤検地の歴史的意義について記せ」!』へ)
 これは、班田収授・古代税制と並んで計算問題がある。ポイントの整理を確実に。
ア 上・中・下・下々の4等級に分けられたこと。(⇔史料に「田畠并在所の上中下能々見届け」とあるが、3等級ではない。迷うな!)
イ 「六尺三寸の棹を以て、五間六拾間、三百歩壱反に・・・」→6尺3寸の棹使用。300歩1反となった。
ウ 「京枡を以て年貢を納所致すべく候」→京枡の使用

エ そして最も分かりにくいのが、石盛石高の違いであろう。
 石盛とは1反当たりの公定収穫量。これに面積をかけて出る総生産量石高。さらに年貢率(大体、二公一民)をかけると年貢高が出る。
 計算問題があるので、石盛は上田1石5斗、中田1石3斗、下田1石1斗、下々田9斗。1石=10斗=100升=1000合。1町=10反=100畝。1反=300歩、1畝=30歩という単位もおさえておくこと。

(6) 兵農分離への流れ
 「ケンい(ひ)!」=「太閤検地刀狩身分統制令人掃令」の順番をしっかり。(発展「身分統制令と人掃令」へ)(コラム「太閤検地・刀狩の歴史的意義について論ぜよ」へ

(7) 外交
 バテレン追放令1587)は、九州平定の帰途、大村純忠長崎を教会に寄進していたことなどに衝撃を受け、博多で発布されたが、あくまで宣教師の追放令であって、禁教令ではなく、大名の入信は許可制となったが、一般民衆の信仰は自由であり、貿易は奨励したので不徹底であった。
イ 海賊取締令によって倭寇が終わる。ぼくの受験生時代は、倭寇を禁圧する必要から、秀吉が最初に朱印状を発行したと習ったが、この時代の資料があまりなく、今の受験では朱印船貿易は江戸時代初期の外交でおさえるのでよいと思う。

 スペイン船「サン=フェリペ号事件(1596)→26聖人殉教事件」はセットネタ。

ウ そして朝鮮侵略である。朝貢要求先のゴア=ポルトガル政庁、マニラ=スペイン政庁、高山国=台湾という組合せはセンターテスト出題済。
   2度の出兵(文禄の役・慶長の役)の本陣は肥前の名護屋。対馬の宗氏を介して、朝鮮に朝貢と明侵攻への先導を求め、朝鮮が拒否すると釜山付近に上陸した。漢城(現ソウル)→平壌(ピョンヤン)→豆満江まで至ったが、李舜臣の水軍に苦しめられ、和平交渉のため一時撤兵。(文禄の役)
 和平交渉決裂の結果、2度目の出兵となる(慶長の役)が、秀吉の死とともに撤兵した。(エピソード「なぜだろう−朝鮮侵略−」へ


(2014.1.16 内容を整理。豊臣政権の一部を修正・加筆)

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