発展 『身分統制令と人掃令』

 山川出版社の教科書には、人掃令について 

1591(天正19)年,秀吉人掃令をだして,武士に召使われている武家奉公人(兵)が町人・百姓になること,また百姓が商売に従事することを禁止した。さらに翌年,関白豊臣秀次が朝鮮出兵の武家奉公人や人夫確保のためにだした人掃令にもとづいて,武家奉公人・町人・百姓の職業別にそれぞれの戸数・人数を調査し,確定する全国的戸口調査が行われた。このように,この法令は身分を確定することになったので人掃令を身分統制令ともいう。こうして,検地・刀狩・人掃令などの政策によって,兵・町人・百姓の職業にもとづく身分が定められ,いわゆる兵農分離が完成した。

と記している。ところが僕のノートは身分統制令1591)→人掃令1592)となっている。これはどういうことなのか。

 桐原書店の教科書には

小田原平定後の1591(天正19)年には、家臣がかかえる奉公人が町人・百姓(農民)になることや、百姓が商業や賃仕事に従事することを禁じる法令三カ条(身分統制令)をだした。(注;さらに1592(文禄元)年、朝鮮出兵による動員などのため、人掃令をだして戸口調査を命じ、村ごとに家数・人数・身分・老若男女を調べさせた。)検地の実施とともに進められた刀狩や、百姓・奉公人の移動禁止、武士の城下町集住などの一連の政策を、兵農分離という。

とあり、これなら僕のノートと同じである。

 結論からいうと、「身分統制令」というものはない。なぜなら、1591年の身分法令は、身分を統制することが目的ではなく、朝鮮侵略に備えて、兵力と兵粮米の生産者の数量の確定を目指したものである。そして、実際の戸口調査が翌年に行われた。結果としてこれが兵農分離の確立、体制化の端緒となったのである。そういった意味では、山川の教科書の記述が史実に近いことになる。
 しかしそれを言うなら、1591年令を単純に「人掃令」というのもおかしなことになる。1591年令は、武家奉公人(主人とともに戦う足軽・若党などや、戦場で主人を助けて馬をひいたり槍をもつ中間・小者・あらし子など)が、町人や百姓(これは農民とイコールではない。百姓には農業・林業・漁業に従事している人びとが含まれる)になることを禁止し、武家奉公も耕作もしない者を村から追放することを命じたものだが、「人掃」という言葉は出てこない。1592年令で新入者の追放を町村に命じ、これが「人掃い」といわれたのである。

 高校の日本史教科書や史料集を比べてみると、山川以外はいずれも「身分統制令(1591)→人掃令(1592)」という形でまとめている。これは他の教科書の記述が遅れているというよりはむしろ、現在の段階では学説として定着しているとは言えない事柄に対して慎重に対象していると見るべきである。山川1社だけがうれしがって変更し(山川には往々にしてこの傾向が見られる)、いたずらに受験生を混乱させたと言われても仕方がないと思う。

 なお記述については、何社かの教科書で1591年令で「武士が農民や町人になるのを禁止した」と書かれているが、正確にはこれも誤りである。法令の対象となったのはあくまでも武家奉公人であって武士ではない。

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