秀吉がなぜ朝鮮侵略を行ったのか。昔からいろんな人がいろんなことを言ってきた。例えば、
1.約100年ぶりに国内を統一した秀吉は意気盛んで、明を征服しようという夢にとりつかれた。悪く言えば、このころ秀吉は老人ボケしていた。(もっとも、秀吉は「もし明に生まれていたら、ユーラシア大陸を統一できたかもしれない能力の持ち主だった」と言われた先生もいたので、あながち妄想でもなかったかもしれない。)
2.戦乱の世が終わって、平和な生活に飽き足らない者たちが、不平分子となった。この国内の不満をそらすため、目を海外に向けさせた。(このての問題が実際にあったことは、江戸時代に「傾き者」(かぶきもの)が社会問題化したことを見ても分かる。代表は4代家綱の時の「町奴」と「旗本奴」の対立である。)
などである。
そんな中で、ぼくが学生のころ、新しい観点の説が出された。それは
3.中国を中心とする国際秩序が明の衰退の中で変化する中、秀吉は、紀元前から続いていた「中国があってその周辺の国がある」という、東アジアの言わば「常識」を覆そうとした。そのためには、面とむかって中国に対抗しようとする姿勢を示すことが大切だった。だから、ゴアのポルトガル政庁やマニラのスペイン政庁、高山国(台湾)へも服属と朝貢を求めたのである。
という意見であり、秀吉の外交感覚を非常に高く評価したものである。山川の教科書は、この説を採用している。これに従えば、京都にある耳塚(首に代えて戦功の証として日本に送られた鼻や耳を埋めた)にも象徴されるような、朝鮮に多大の被害をもたらしたこの事業に、世界史的な視点での大きな意味がでてくる。
しかし、これにも疑問がないわけではない。もし、秀吉が本当に明に変わって日本を中心とした国際秩序を目指したのなら、文禄の役と慶長の役との間の和平交渉で、明の使者を迎えた時、秀吉の服装は当然、日本の王たる人物として束帯であるべきではないか。しかし実際には、秀吉は明の礼服を着て迎えている。こうなると主張に一貫性がない。
結局のところは分からない。ぼくとしては、秀吉に対する好き嫌いは別として、3(日本を中心とする国際秩序の構築)と言ってやりたいけど、1(老人ボケ)というのが本当のところかもしれないね。
2004.3.6
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