最近、中学生からよく質問を受けます。先日も京都府の中学1年生の男子生徒さんから、次のような質問を受けました。
<頂いた質問>
次の用語をすべて使って「太閤検地と刀狩のもつ歴史的な意義」について、10行程度の文章にまとめなさい。
使用しなければならない用語
「石高 耕作者 検地帳 一地一作人の原則 太閤検地 荘園制 一揆 刀狩 兵農分離 江戸時代の農民支配」
です。
しかし、「コラム 頂いた質問から(4)」でも述べたけど、十分、大学入試で通用するレベルだね。
さて、太閤検地、身分統制令の意義については、このHPでも何回かふれている(窓『設問「太閤検地の歴史的意義について記せ」!』 発展「身分統制令と人掃令」参照)が、この機会に大きな流れを整理しておきたい。
<野澤の回答(中学生向けに書いたつもりです)>
「太閤検地と刀狩りによって、兵農分離が進み、江戸時代の農民支配の原型ができた」がベースです。これに太閤検地と刀狩りのそれぞれの内容を書き足せば、完成です。例えば 「太閤検地は、検地帳に耕作者を登録し、一つの土地に対して一人の耕作者という一地一作人の原則を確立した。これによって、中世までの荘園制が完全に否定され、領主が農民を直接支配できるようになった。また、農地の広さを正確に測り、そこから取れる米の総生産高を石高で表わすことで、領主は領地を完全に把握できるようになった。さらに刀狩によって、農民から武器を没収することで、一揆を防ぐとともに身分の固定化が進んだ。この、太閤検地と刀狩りの二つの事業によって兵農分離が進み、江戸時代の農民支配の原型ができた。」という感じです。
受験生は時代のイメージを持ちたい。
「地侍」という言葉を正確に理解できているだろうか。室町時代に発展した自治的な村である惣の有力農民(名主層)は、守護大名と主従関係を結んで侍身分も得ていた。このような「村では有力農民だが、領主の前では侍」という「農民でも武士でもある者」を地侍という。
また、大名家臣も平和な時は、領地で農民たちとともに生活していた。領主と農民の関係が比較的近かったことは、在地の小領主である「国人」による山城の国一揆を見ても分かる。
このような中、太閤検地は彼らに、「おまえは今後、農民として生きていくのか、それとも武士として生きるのか」を迫ったと言える。今風に言えば「自営業を営むのか、サラリーマンになるのか選べ」というわけである。
名主層の中で農民を選んだ者は、耕作者として検地帳に登録された。「一地一作人」というが、実際に検地帳に登録されたのは作人層ばかりではなく名主層が多かったのはこのためである。
一方、石高の持つ意味とは何か。それまでの貫高とは例えば、「年貢が銭で2000貫とれる土地」という意味である。では、実際の土地の広さはいくらか。それは分からない。では米の生産高はいくらか。それも分からない。大雑把なものである。
それに対して、土地の実際の面積を測り、単位面積当たりの標準生産高(石盛)を基準に、米の総生産高(石高)をはじき出した。これによって、農民は収穫をごまかすことができなくなり、領主は領地と農民を正確に把握するようになった。
さらに農民を選んだ者たちの武器を没収しようとしたのが刀狩である。「おまえはもう農民として生きていくことを選んだのだから、武器はいらないだろう。」というわけである。(しかし、実際にはすべての武器を回収できるはずはなく、有力農民たちは刀を所持していた。その証拠に江戸時代に、農民同士の刀の売買証文が残されている。)
ここから、身分統制令、人掃令と続く一連の事業で、兵農分離が確立していくことは発展「身分統制令と人掃令」で述べたとおりである。
ところで、これらの政策が当時の秀吉の家臣たちみんなに支持されていたわけではない。
秀吉の家臣の中には「これでは老後の楽しみがなくなり、人の気味が卑しくなる。」つまり、「主君と考えが合わなければいつでも侍をやめて農民になればいいと思えるから、自己の尊厳を保っていられる。土地から切り離されてサラリーマンになれば、主君にへつらうようになり、人間性が卑しくなる。」とこの政策に反対したものもいたらしい。なんか、いいなぁ〜・・・。
(2005.3.5)