かつて、HR日誌に次のような感想が書かれたことがある。
(発熱で学校を)休んでいた時、日本史の授業を受けている夢を見た。「なんだ、私、大丈夫だったんだ。よかった。」と思ったところで目が覚めた。それほど信長の回を逃したことは、私にとってショックだったようで・・・
信長は受験には出にくいが、授業では華である。実際、板書は黒板の半面もないのに、延々としゃべっている。エピソード編で取り上げると、収拾がつかなくなると思い避けてきたが、一部を紹介すると・・・
1.戦法について
信長といえば長篠合戦(1575)の「鉄砲の三段撃ち」が有名である。これによって武田勝頼が馬防柵の意図と鉄砲の威力を理解しない愚かな武将のように描かれる場合があるが、これは誤りである。勝頼自身、自分の軍には「鉄砲が不足している」と認識していたし、馬防柵自体は武田軍にとっては見慣れた光景であった。武田軍には馬防柵対策専門の部隊までいたし、実際、一部の柵は取り壊され突破されている。
この「鉄砲の三段撃ち」だが、かつては「世界で最も優れた戦法」だったと言われていたが、近年(2023現在)では、「三段撃ち」というシステマティックなものではなく、スーパーマーケットの「レジ打ち」のようなものだったとも言われている。
また、桶狭間の戦い(1560)で今川義元を破った戦いが余りにも見事なため、奇襲をよくするように思われがちだが、これも違う。基本的に彼は、敵に十分勝る兵力を整えて、勝つべくして勝っている。
長篠合戦の大勝利の後、武田氏を滅亡させるまで、さらに7年間、相手が内部で崩壊していくのを辛抱強く待っていたことなど、その典型である。
2.仏教について
比叡山延暦寺を焼打ち(1571)し、伊勢長島一向一揆鎮圧(1574)・越前一向一揆鎮圧(1574)・石山戦争(1570〜1580)などから、信長は旧勢力を破壊し、仏教を弾圧したように言われることがあるが、これも正しいとはいえない。
確かに彼は比叡山を焼打ちしたが、天台宗を信じてはならない言ったことは一度もない。
富田林という寺内町がある。顕如(本願寺光佐)の呼びかけに応じて、表面上は信長との対決姿勢を示したが、実際には信長軍が来た瞬間に一戦も交えず降伏した。結果、富田林は寺内町として安堵された。
石清水八幡宮や大山崎の離宮八幡位宮の造営を行っているし、自殺した守り役の平手政秀のために政秀寺を創建したりもしており、彼の感覚は普通だと言える。
また、「安土宗論」について山川の『日本史用語集』は、「1579年、信長の命で安土で行われた日蓮宗僧と浄土宗僧の討論。日蓮宗の熱烈な活動に反感を持っていた信長は、計画的に日蓮宗側の負けとして弾圧」と書いてある。しかし、そもそもきっかけは浄土宗側が安土で講義をしていたところへ、日蓮宗側が法論を挑みに殴り込んできたのである。最初、信長は両者に和解を勧めたが、日蓮宗側が聞かず、浄厳寺で論争となった。結果として、信長が介入して故意に日蓮宗側の負けとして断罪したが、そのときの詫び状にも「今後、他宗を非難しない」と書かせている。
つまり信長は、宗教が平和的でなく戦闘的に行われることを嫌ったのであって、信仰そのものを否定してはいない。日蓮宗を嫌っていたわけでもないことは、彼の宿舎が本能寺のような日蓮宗の寺院であったことからもわかる。
信長の目的は、宗教を政治のもとに従わせることであった。もっと簡単に言えば、基準は「自分に従うか否か」であり、極めてリーズナブルである。
3.「御狂」について
信長の残忍さの引き合いに出されるのが、1573年、浅井長政・朝倉義景を滅ぼした後、長政ら3人のしゃれこうべに金箔を張って(薄濃=はくだみ)、それで椀をつくって酒を飲むとともに、長政の母親をなぶり殺した話である。
信長は、時に分別のある成人とは思えぬ行動をとることがある。
例えば、都大路を家臣たちと爆竹を鳴らしながら馬で暴走することもあった。時に48歳。今風に言えば、50歳近いおっさんが、バイクを連ねて「パラパラパラパラパ〜」と鳴らしながら、大通りを暴走しているようなものである。
これについては、信長を神のように崇め、尊敬している家臣太田牛一(『信長公記』の筆者)も「狂われ」と記している。
また、家臣たちに奇妙な肉弾戦のような演習をさせ、自分もその中に入って、暴れたりもしている。この時も太田牛一は「御狂ありて、御気を晴させられ」と記している。
これはあくまでぼくの勝手な推測だが、信長はその並はずれた独創性とアイディアを生み出す頭脳故に、時に精神の平衡を保ち難くなるときがあったのではないか。
そうした折り、都大路を爆竹を鳴らして暴走したりすることで、発散していたのではないか。
信長の優れていること、恐るべきことは、家臣の皆がわかっていたと思う。ただ、彼の不幸は、「信長がどう優れ、何をしようとしているのか」ということまで理解できていた家臣は、ほとんどいなかったことではないか。と言うよりむしろ、本当にわかっていた家臣は、たった一人しかいなかったとぼくは考えている。
そのたった一人が、豊臣秀吉であった。
2004.2.15
2024.4.16 「三段撃ち」に加筆