エピソード 『人たらし秀吉は猿か?』

 「豊臣秀吉のあだ名は?」と言えば、大抵は「」であろう。

 しかし、図表などにも載っている秀吉の肖像画を見ても、猿には似ていない。このことは、子どもの時から感じていたことだったが、大学で日本史学科へ進むまでは、「きっと肖像を描いた人が、余りに猿に似ていては不都合なので、美化して書いたのだろう。」と考えていた。

 ところが、研究室でふとしたことから、織田信長が秀吉の北政所となる「ねね」に宛てた手紙の中で、秀吉のことを「禿げネズミ」と呼んでいたことを知った。
 「ネズミ」なら、肖像画のイメージにも合う。実はこれが秀吉の本当のあだ名だったのではないだろうか。

 秀吉が猿に似ていたという根拠となっているのは、おそらく1591(天正19)年に京都市中に張り出された狂歌である。

 まつせとは べちにあらじ 木の下の さる関白を みるにつけても (末世とは 別にあらじ 木下の 猿関白を 見るにつけても)

 これは貴族からみて、出自のはっきりとしない秀吉は、人並みでない猿のようなものだという認識を言ったのであって、ルックス云々ではない。しかし、これがやがて一人歩きしたのではないか。
 やはり彼は「禿げネズミ」であろう。信長がねねを慰める手紙の中で、「(ねねは)あの禿げネズミにはもったいない」と言っていたが、まったく同感である。

 閑話休題・・・。秀吉の人物像を二つばかり挙げておく。

 一つ目は、無類の「人たらし」であったと言われる。竹中半兵衛が、秀吉の軍師として従うようになったことも、よく引き合いに出される。「人たらし」とはちょっと人聞きが悪いが、これは秀吉の人間的魅力を物語っている。彼に会った人は、その快活さや笑顔、人懐っこさ、細やかな心遣いに魅了され、たちまち虜になったらしい。

 二つ目は、秀吉の女道楽である。「病気じゃないか」と思うくらいの女好きで、当時から鳴り響いていた。
 伊達政宗が服属したとき、人質として彼の正室で、美人の誉れ高かった愛姫(めごひめ)を出せと言われ、政宗の家臣たちが、「絶対、手を付けられる。」と大反対した。
 気に入った女性が武将の妻だった場合、夫を戦場等に派遣し、留守中に彼女を召してものにするという悪癖もあった。細川忠興の妻玉子(後のガラシャ)も同様にして召されたことがあった。彼女は、秀吉の前で「細川でございます。」と平伏した時、わざと懐中から短刀を落として見せたという。これは、「私に手を出したら殺してやる。」ではない。夫の主君にそれはできない。「私に手を出せば死にます。」という意志表示であった。これにはさすがの秀吉も、手が出せなかったと伝えられている。

 こんなエピソードもある。
 秀吉があまりに美女を好むので、近習たちがおもしろがって、評判の美少年を秀吉の小姓にとりたて、秀吉と二人きりにした。当時は戦国大名のほとんどがバイセクシャル(男も女もあり)であった。
 やがて、秀吉と何事か言葉を交わしていたその美少年が退出してきた。さっそく近習たちは「何を申されたのか?」と美少年に問うた。
 返事は・・・。

 「私に姉か妹がおらぬかと仰せになりました。

(2003.2.24)

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