『室町時代編1 建武新政と南北朝の動乱』

 第1章 日本文化のあけぼの

【1】 先土器時代 (P.1)(P.43〜49)

(ノートP.43〜48)

1 建武の新政

(1) 後醍醐天皇の理想が、「延喜・天暦の治」と呼ばれた醍醐・村上天皇の時代であったことは基本。
 くどいようだが、後醍醐天皇が大覚寺統出身であることはできなければ自分だけだと思って良い。
(2) 組織では、中央の記録所雑訴決断所に注意。「記録所は、重要政務機関であり、後三条天皇の延久の荘園整理令の時の記録所(記録荘園券契所)が荘園整理機関であったことと対比」される。後三条の記録所の再興という形であった。
 「雑訴決断所鎌倉幕府の引付(衆)を踏襲」したことが頻出。所領関係の裁判にあたった。
 恩賞方(=恩賞事務)、武者所(=警備。頭人が新田義貞)は一問一答である。
(3) 地方では、鎌倉将軍府が、室町幕府の鎌倉府との正誤問題で問われる。諸国に守護と国司を併置したことも知っておかなければならない。
(4) さて、問題は新政の諸問題である。政権崩壊の大きな要因として以前は「公武の間の恩賞の不平等」が言われてきた。しかし、ぼく自身は恩賞の不平等はなかったと考えている
 実際、山川、実教、三省堂の教科書では「恩賞の不平等」という内容はでてこない。その一方で桐原の教科書には「公家・寺社と武家のあいだに不平等」、東京書籍は「恩賞の配分が公家偏重の方針」と書かれている。

 受験で正誤問題で問われれば判断の難しいもの(と言うよりも、教科書でも記載に違いのある部分を出題するのは、出題者の勉強不足というしかない)。だが、そのように記してある教科書が存在する以上、○とするのが妥当だと考えられる。(ただしセンター試験や有名大学で出題されれば必ず批判を受けると思われる。)

発展 『建武新政の恩賞は本当に不平等だったのか?』ー東大入試問題に学ぶ3ー(1991年第2問)へ

 ただし、意図的な差別はなくても、政権の主な機関のトップは公家で、法曹官僚と武士が補佐するという形であり、実務能力を差し引いても人事に不公平感はあったかもしれない。

 しかし政権崩壊の最も重要な原因は、「公武両方の期待を実現出来なかった」ことであろう。後醍醐の「朕が新儀は未来の先例たるべし」(『梅松論』)という言葉は有名であるが、
(ア)「全ての所領の安堵に天皇の綸旨が必要」と言って武士社会の慣例を無視
(イ)公家の人事でも平安・鎌倉時代を通じて確立されていた家格を無視
(ウ)大内裏の造営費用を地頭に負担させようとして(当然、その負担は農民にかかってくる)在地の実態を無視
するという、現状を全て無視した状況判断力に乏しい思いつきの政治が、全方面の反発を生んだといえる。

 結果として「全ての所領の安堵に綸旨が必要」という法令は、約半年間に二変三変し、次第に現状維持の事なかれ式となっていったが、「一所懸命」である武士たちにとって、このように短期間に政策が変わりまくる状況は、当然、不安・不満の原因となった。
 また政権内部の人間からも批判はあった。例えば後醍醐天皇の側近として「後の三房」の一人とされた北畠親房の息子北畠顕家は、天皇にあてた上表文の中で「政道に益なき寓直の輩を除かるべき事」として、「天皇の側近にいて政務に口を出す無能な貴族・武士・女官・僧侶」の粛清を強く求め、「法令を厳にせらるべき事」と銘打って「民以て手足を措(お)くところなし。令出(い)でて行われざれば、法なきにしかず」と痛罵している。この上表文は彼が1338年に「石津の戦い」で戦死する直前に出されている。北畠顕家は建武新政の陸奥将軍府の長官として地方行政に携わり、また軍を率いて戦わなければならなかった者であるだけに、その憤りと無念さが伝わるようである。

(5) 建武政権崩壊の原因を山川の教科書は次のようにまとめている。
@天皇中心の新政策が武士社会の慣習を無視していたことによる武士の不満と抵抗
Aにわかづくりの政治機構と、内部の人間的対立による政務の停滞や社会の混乱


 一文で最も端的にまとめてあるのが三省堂の教科書である。
建武の新政は後醍醐天皇中心の専制政治であったため、武家社会の慣習を無視した政策が多く、また、天皇が家柄や官位を無視して、自由に官職の任免を行ったので、武士だけでなく公家の反発も強かった。さらに、大内裏造営や新政策を実施するための費用を増税によってまかなおうとしたので、農民からも不満の声があがった。

 これらの記述が的を射ていると思う。
 この混乱ぶりを最もよく表しているのが「二条河原落書」(出典の『建武年間記』もたまに問われる)である。「此比都ニハヤル物。・・・モルル人ナキ決断所」の史料も押さえなければならない。

 ただ、現状認識には乏しかったが、全くの的外れともいえないものがあったことは、『鎌倉時代編3 武士の生活/地頭の荘園侵略/産業・経済』中の<発展的な内容:銭納(代銭納)が広まった背景>で述べたとおりである。

2 南北朝の動乱
(1) 足利尊氏北条高時の遺児北条時行による中先代の乱を機に鎌倉に下る。高時、時行ともに注意。このどさくさ中で、後醍醐天皇の皇子で鎌倉に幽閉されていた護良親王が殺害された。
(2) 京都を制圧した尊氏は、後醍醐を廃して持明院統光明天皇を擁立、結果的にこの光明天皇に征夷大将軍に任命されることになる。ここで紛らわしいのが天皇の即位順である。「後醍醐→光厳→後醍醐→光明」だが、「厳」と「明」はいわゆる「アイウエオ」順である。
(3) 尊氏は建武式目を発するが、これはポイントが多い。
 何よりも「建武式目は幕府再興の基本方針であって、法令ではない」のであり、「室町幕府の基本法典はあくまでも貞永式目」で、必要におうじて式目追加を出した。室町幕府になって出された式目追加を建武以来追加という。
 また、これが幕府再興の表明であることを考えれば、「尊氏が征夷大将軍に任ぜられるのは、建武式目より後」であることがわかる。建武式目が17カ条なのは、当然、聖徳太子の憲法十七条を意識している。(貞永式目51カ条も17の倍数である)形式は足利尊氏が政治のあり方を二階堂(中原)是円らに諮問したことに対する答申という形をとっている。二階堂是円は難問。

(4) 後醍醐天皇が吉野に逃れ、南北朝の動乱が始まる。この南北朝の動乱中に、足利氏の内紛である観応の擾乱(1350〜1352)がある。観応の擾乱では、「尊氏の執事=高師直」と「尊氏の弟=直義」の名前を確実におさえておくこと。(エピソード「生みの苦しみー観応の擾乱ー」へ
 南北朝は足利義満1392年に、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇(一休宗純の父と言われる)に譲位する形で合一された。

3 守護大名と国人一揆
 南北朝の動乱、観応の擾乱を通して、守護が権限を強化されていく。
(1) まずは守護による荘園侵略について。
 守護請は、「鎌倉時代は地頭請室町時代は守護請」の丸暗記。
 ポイントは半済である。半済(令)は観応の擾乱の最中の1352に、尊氏方が守護を味方につけるために出した。「最初は近江美濃尾張の3カ国に1年限りであったが、のち全国に永続的となった」という部分そのものが、正誤問題で出される。3カ国は正しい組合せも問われるので、全て覚えないと意味がない。史料の出題も多いが、空欄補充が出た場合はなぜか真ん中の美濃が聞かれることがほとんど。
 そして最重要なことは、鎌倉時代の「下地中分は土地を折半」、室町時代の「半済は年貢を折半」である。ここで盲点一発。半済の史料の出典は何?室町時代になって新たに出された幕府の法令、つまりこれが建武以来追加ですよ。
(2) 室町時代には、元来「大犯三箇条」しかなかった守護の権限が強化され、「刈田狼藉を取り締まる権限」(刈田狼藉の検断権)と「使節遵行」の権が正式に加わった。
(3) こうして守護は、一国内の警察権のみならず徴税権をも手にし、全体の支配権を獲得した。本来、守護は将軍との主従関係において任命されるものであったが、世襲が当然のようになっていった。この守護の支配体制を守護領国制という。
 この室町時代の守護を守護大名と呼ぶこともある(守護大名とは、あくまで鎌倉時代の守護と区別するために使われる歴史用語である)

 鎌倉時代の守護と室町時代の守護大名、そして戦国大名の違いは、
 発展「どうちがうんですか?守護と守護大名と戦国大名 その1ー東大入試問題に学ぶ4ー」(1996年第2問)と、
 発展「どうちがうんですか?守護と守護大名と戦国大名 その2ー東大入試問題に学ぶ5ー」(1988年第2問) に詳しく記している。

(4) 国人一揆とは何か。
  一言で言うと、地頭など在地のプチ領主である。そもそも鎌倉時代の守護は、国内の有力地頭のボランティアのようなものであり、御家人として地頭と守護とは対等なはずであった。ところが惣領制に基づく血縁的結合が崩壊し、地縁的結合が重視されるようになると、守護による支配が強まっていった。このような中で、プチ領主たちには二つの選択肢が与えられたわけである。
 @守護の被官化(家臣化)して、保護してもらう道。A守護に対抗する道である。しかし1対1では勝ち目がないので、プチ領主同士が同盟を組んだ。これが国人一揆である。
 勘違いがあるのは、「一揆」とは一味神水して団結することであり、暴れることではない。(一味神水とは、神社で血判を押した起請文(神に誓う文書)を読み上げた後、それを燃やして、その灰を宮水(神水)に溶かしたものを回し飲みすることである。これで裏切ったら神罰が下っても構わないと誓うわけである。起請文に関する出題については、入試問題解説 2011年度一橋大学第1問参照)
 こうして国人たちは、団結して地域権力をつくって農民を支配し、守護の支配に抵抗した。ただし、全ての国人が守護に対抗したわけではなく、選択肢@(守護の被官化)を積極的に選んだ者もいた。

(2005.7.24改訂)
(2010.3.3改訂)
(2010.12.4加筆)
(2013.2.23 国人一揆に関する記述を加筆)
(2013.9.14 発展へのリンクを追加)


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