発展 『どう違うんですか?守護と守護大名と戦国大名 その1』
    ー東大入試問題に学ぶ 4ー
 (1996年第2問)

 守護と守護大名と戦国大名。

 中学校の教科書から当たり前のように書かれている。しかしその相違をどれくらい理解できているだろうか。
  
 「違いがよく分かりません。」と困ったように質問に来る生徒のほうが、「簡単やないか。鎌倉守護室町守護大名戦国戦国大名や。」と用語として単純に図式化する教員より、実は本質をつかんでいるかもしれない。特に守護大名と戦国大名の違いは難しい。

 それを正面切って取り上げたのが、東京大学の1996年第2問と1988年第2問である。

 ここでは2回シリーズで東大の2問を用いて、この守護・守護大名・戦国大名の相違を見ていきたい。


<東京大学1996年第2問>

次の(1)〜(6)の文を読んで下記の設問に答えよ。

(1) 1346年、室町幕府は山賊や海賊、所領争いにおける実力行使などの暴力行為を守護に取り締らせる一方、守護請や兵粮米と号して、守護が荘園や公領を侵略することを禁じた。

(2) 1400年、信濃の国人たちは、入国した守護に対して激しく抵抗してついに合戦となり、翌年、幕府は京都に逃げ帰っていた守護をやめさせた。

(3) 1414年、九州の一地方の武士たちが作成した契約状によれば、喧嘩を起した場合、双方が処罰されることとなっている。

(4) 1526年に制定された「今川仮名目録」では、喧嘩の両当事者は、その主張が正当であるかどうかにかかわりなく、死罪と規定されている。

(5) 1563年、武田氏が作成した検地帳によれば、検地をして新たに把握された増加分は、その地の家臣に与えられている。

(6) 発掘調査の結果、朝倉氏の城下町一乗谷は計画的につくられており、館を中心に、武士の屋敷や庶民の家、寺などが周囲をとりまいていることがわかった。

設問

A (1)の文を参考にして、室町時代の守護は、鎌倉時代の守護とどのような点が異なっているのか、2行(60字)以内で説明せよ。

B (2)〜(6)の文を参考にして、室町時代の守護が直面した地方の武士のあり方と、それに対応して戦国大名が支配権を確立するためにうちだした施策について、5行(150字)以内で説明せよ。

 

<考え方>
 Aについて
 資料には鎌倉時代の守護のことは記されていないので、この点については教科書を中心とした自分の知識を用いなければならない。山川の『詳説 日本史』には次のようにある。

「守護は原則として各国に一人ずつ、主として東国出身の有力御家人が任命されて、大犯三カ条などの職務を任とし、国内の御家人を指揮して平時には治安の維持と警察権の行使にあたり、戦時には国内の武士を統率した。」(P.90)

(ぼくとしては山川の教科書の「大犯三カ条などの職務」とあるこの「など」が気になる。これでは他にもいくつも職務があるが、その中の一部が大犯三カ条だととれる。しかし貞永式目に定められている守護の職掌は「大犯三カ条のみ」である。)

 鎌倉時代の守護は通史編の「鎌倉時代編1 鎌倉幕府の成立」でも述べた通り、一国に一人任じられ大犯三カ条を職掌としており、地頭を兼任してその得分で生活していた。元来、鎌倉時代の武士社会は、惣領制のもと分割相続を基本とした血縁的結合であったため、守護と地頭との結びつきは強いものではなく、主従関係もなかった。言いかたによっては有力地頭がボランティアで警察権を行使しているようなものであった。

 一方の守護大名については(1)の文を参考にするように求められている。
「山賊や海賊、所領争いにおける実力行使などの暴力行為を守護に取り締らせる」は、刈田狼藉の検断権が付与された→国内の支配権が強化された

○「守護請や兵粮米と号して、守護が荘園や公領を侵略することを禁じた。」は少し意外に思った人がいたのではないか。兵粮米と号して荘園や公領を侵略することは半済だから、これはまさに守護請と半済を禁止している。しかし室町時代の守護が荘園を侵略していったことは基本であり、その半済を認めたのは幕府である。
 落ち着いて資料の年代を確認してほしい。1346年となっている。半済令が出されるのは1352年である。本来、幕府は守護の荘園侵略を禁止していた。しかしわざわざこのような法令を出すということは、いかに守護の荘園侵略が行われていたを表している。

 元寇のころを境にして、「分割相続→単独相続=惣領制の崩壊」が起こると、「遠くの親戚より近くの他人」という図式となり、地縁的結合が進展する。(ア)で示された守護の権限強化によって有力な守護は国内の国人などと主従関係を結んでこれを家臣化(被官化)していった(=人)。そして(イ)で示されているように、半済・守護請などを通して国内の荘園・国衙領に対する権限を強化(=土地)した。
 さらに言えば、内裏の造営などの国家的行事の際には、段銭、棟別銭を徴収する権限=本来国衙の機能であった民衆からの徴税権(=金)を得るようになった。この様子を山川の『詳説 日本史』は、

守護は、基本的には幕府から任命されるものであったが、守護のなかには国衙の機能をも吸収して、一国全体におよぶ地域的支配権を確立するものもおり、しだいに任国も世襲されるようになった。鎌倉幕府体制下の守護と区別して、この時代の守護を守護大名とよぶこともある。」(P.117〜118)

と記している。

 つまり、鎌倉時代には一部行政官的な役割を担ってはいても、基本的に治安維持のための警察権を持つに過ぎなかった守護に対して、室町時代の守護大名は、「人・土地・金」のすべてを掌握して一国全体におよぶ地域的支配権を確立した一国の支配者だと言える。ただし全部書くと字数がとても足りない。(1)には金の部分はでてこないので、人と土地をまとめればよいと考える。例えば、

 鎌倉時代の守護は治安維持のための警察権を持つに過ぎなかったが、室町時代には国人などを家臣化し、守護請や半済を通して荘園・公領を侵略していき、一国全体に及ぶ支配権を確立した。(85字)

 これでも85字なので、60字までさらに絞らなければならない。

 
 Bについて。
 問われているのは、
(ア)室町時代の守護が直面した地方の武士のあり方
(イ)それに対応して戦国大名が支配権を確立するためにうちだした施策
(ウ)条件は(2)〜(6)の文を参考にすること

である。

まず(ア)について。
(2)より「国人たちが守護に対して抵抗し、ついに追放した。」逃げ帰った守護を幕府がやめさせたというのは、要するに守護が追放されたということである。山城の国一揆を連想できる。
(3)より「地方の武士たち=国人たちは契約状のなかで喧嘩両成敗を規定している。」→国人たちは一揆を結び、喧嘩両成敗を定めるなど自主的に相互間の紛争を解決している。→惣が惣掟を定めて自検断を行うなど自立性が強かったのと同じように、国人たちも自立性が強い

 なおこのことは山川の『詳説 日本史』のP.118に
地頭などの領主で当時国人とよばれた地方在住の武士には、なお自立の気質が強く、守護が彼らを家臣化していくのには多くの困難があった。守護の力が弱い地域では、しばしば国人たちは自主的に相互間の紛争を解決したり、力をつけてきた農民を支配するために契約を結び、地域的な一揆を結成した。これを国人一揆という。このような国人たちは、一致団結することで自主的な地域権力をつくりあげ、守護の上からの支配にもしばしが抵抗した。

と記されており、まさに(2)(3)の内容を表している。

そして(イ)が(4)〜(6)で示されている。
(4)より「戦国大名の分国法で、喧嘩両成敗が定められている。」→(3)の取り決めを戦国大名が採用→ただし裁く主体は自治によるものではなく、戦国大名となった。つまり「国人たちの自治を否定し、紛争解決の裁定を自らに集中させた。
(5)より「戦国大名は検地を行って、家臣が新しく土地を把握した場合は、その者に与えている。」これをどう解釈するか。判断が問われるところである。
 「検地をしっかりやったら褒美をやるぞ」という家臣に対するアメとムチの政策のようにも見える。しかし褒美をもらうには、検地をきちんと行い、それを正しく(ごまかさずに)報告しなければならない。これにより大名は領国内の生産力を正確に把握するとともに、家臣との主従関係を強化することができる
(6)は「家臣を土地や農民から切り離し、土地に対する自らの支配権を強化しようとした」有名な城下町集住政策である。

 このの部分をつなげて150字でまとめればよい。

 なお、東京大学1996年第2問に対する野澤の解答例は次の通りである。

 
<野澤の解答例>

 鎌倉時代の守護は警察権を持つに過ぎなかったが、室町時代には国人等を家臣化し、荘園・公領を侵略して領国の支配権を確立した。(60字)

B 国人たちは一揆を結んで守護に抵抗したり、自分たちで紛争を解決するなど自立性が強かった。それに対して戦国大名は、紛争解決の裁定を自らに集中させ、検地を行って領国内の生産力を把握し、かつ国人との主従関係を強化する一方で、城下町集住政策によって彼らを土地や農民から切り離し、自らの支配権を確立しようとした。(150字)


 以上のことから

 「鎌倉時代の守護は基本的に国内の治安維持のための警察権を持つに過ぎなかったが、室町時代の守護大名は、一国全体におよぶ地域的支配権を確立した一国の支配者であった。しかし、その支配領域の中でも地頭などの小領主である国人たちは自立性が強く、一揆を結んでしばしば支配者たる守護大名と対立した。戦国大名は彼らの自治を否定して主従関係を強化するとともに、土地や農民たちから切り離すことによって、自らの支配権を確立していった。」

ことがわかる。
 そして戦国大名と守護大名との土地に対する立場の違いをさらに明確にしたのが、1988年第2問である。次回はこの問題(1988年第2問)を題材に考えていきたい。

2010.12.20


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