エピソード 「生みの苦しみー観応の擾乱ー」

 NHKの大河ドラマ『太平記』に絡めた話は、「エピソード 暗君の哀しみー北条高時ー」でも述べた。この時北条高時を好演した片岡鶴太郎が役者としての地位を確立したとぼくは書いたが、もう一人、この時認められた人物がいると思う。それは足利直義を演じた高嶋政信である。開始当初は何となく「大丈夫か、こいつ」という感じだったが、ドラマが進むごとにどんどん上手くなっていき、終盤では主演(足利尊氏)の真田広之を喰っていたような感さえある。

 足利家の内紛である観応の擾乱(1350〜1352)は、受験では「足利尊氏・高師直(尊氏の執事)」対「足利直義(尊氏の弟)」の対立であり、それぞれの陣営が戦況に応じて南朝と離合を繰り返したため、南北朝の動乱が長引く一つの要因となった。途中、高師直が敗死するが、最後は鎌倉で尊氏が直義を毒殺して終わるということが分かっていれば十分である。(毒殺説には異論もある)

 大河ドラマ『太平記』でも、本当に仲の良かった兄弟が、力を合わせて鎌倉幕府を倒し、室町幕府を立ち上げたものの次第に対立していき、最後は兄が弟を毒殺するという過程がよく描かれていた。
 最終回で、鎌倉に幽閉さている直義に尊氏が毒を盛る場面があった。平静を装いながらも、弟が毒を飲む姿に震える兄。そして倒れた弟をたまらずに抱きしめて、泣きながら「なぜ意地を張った」と問う兄に対して、「これでいいのです。よくぞご決心なされた。いまさら桃井(もものい。直義家臣)は捨てられません。これで幕府は安泰じゃ・・・。やっぱり兄上は大将軍じゃ・・・」と苦しい息の下でいい、最期に尊氏にしがみついて「兄上、兄上〜」と呼びながら死んでいく弟直義。その弟の死体を抱きしめて「あぁ〜、弟を殺してしまった〜」と泣き叫ぶ兄尊氏。今、思い出しても涙が出る名シーンだった。

 実際の尊氏・直義も、同じ母親から生まれた1歳違いの兄弟として極めて仲が良かった。尊氏が「今生の果報はすべて直義に与えて、その身を安穏に御守り下さい」と石清水八幡宮に祈願した願文は有名である。

 この極めて仲の良い兄弟のもと、創立期の室町幕府は日本史上他に例を見ない明確な権限分割が行われていた。兄尊氏は、将軍として武士との間に結ばれた個別的な主従関係をとおして支配権を掌握し、幕府という軍事組織に君臨した。弟直義は、「幕府は公的な統治者」であるという側面の権限を握り、評定、引付などの行政・司法の機関をとおして、その「政道」を実行に移した。
 簡単に言えば、尊氏が軍事を、直義が政治を担当する二頭政治の形態であった。(かつて、室町幕府の初期段階として、この「二頭政治」という言葉を問うた入試問題があった。)

 しかし、大らかで豪放な尊氏と、理性的で実直な直義という性格の違いを抜きにしても、一つの組織の中で権限が二つ分割された形態を長期間維持させていくのは非常に困難なことである。実際諸国の守護は、国内の武士たちの軍事統率者としては尊氏の指揮系統のもとにあるが、裁判の執行などの行政担当者としては直義の権限下にあるという状態であった。そして直義が期待した守護像はあくまで「建武式目」第七条に「諸国の守護人は殊に政務の器用を択(えら)ばる可(べ)き事」とあるように、良い行政官であった。

 このような直義に対して、尊氏の代官たる執事高師直は「所領欲しくば、近隣の荘園を勝手に掠(かす)め取れ」とか「院や天皇がなくて叶(かな)わぬものならば、木や金でつくればよい。生身の院・天皇はどこかへ流してしまえ」などと言い放ったといわれるように、在地の新興武士の利益を代表していた。さらに、日本史上で高師直のような成り上がり者の男は共通の夢を持つようで、それは「上流階級の娘をものにしたい」という願望であった。しかし、摂関・大納言などのTOP貴族の娘が彼らに惹かれるはずはなく、そうなると手に入れる手段としては、力ずくで(誘拐して)ものにする以外にない。(大河ドラマではこのことも描かれていた)それだけに高師直は貴族や荘園領主たちの恐怖と憎悪の的であった。
 一方の直義は、彼が病床に伏した時、「もしこの人が死んだら、その昔平重盛が早死にしたときと同様、天下の政道はあってなきがごとき有様になるだろう」と貴族たちから心配された人物であり、二人は政策も政治基盤も正反対であった。


 と言われてきたのだが、最近は高師直は、私利私欲のない人間だったと評価する意見もでている
 先述の「院や天皇がなくて〜」のエピソードも『太平記』に書かれているだけで、しかも『太平記』中でも、これは師直に冷遇された妙吉という僧の讒言だと明記されている。そもそ師直を悪逆非道とする根拠は『太平記』にあるのみであって、信頼できる一次資料では確認できない。
 実際の彼は、自身の所領の拡大には無欲であり、妙吉の讒言も「他の人が所領を奪うのをとがめなかった」というもので、彼自身が奪ったとは言っていない。根も葉もないことは、さすがに言えなかったとみえる。確かに美人は好きだったようで、これが江戸時代の『仮名手本忠臣蔵』のネタになっているのだが、美人に惹かれるのは男として仕方ないだろう。
 あくまで師直と直義の対立は、その政治姿勢だと言える。

 この二つの政治勢力がその対立を鮮明にし始めると、武士たちはそのどちらかに与せざるを得なくなる。例えば、一国に守護職を望みうる有力武士が二家あったとして、一方が尊氏側につけば、必然的にもう片方は直義側に立たざるを得ない状況に追い込まれることになる。石清水八幡宮の願文から10年後、両者の対立は決定的となった。こうして足利氏の内紛である観応の擾乱は、全国の争乱に拡大していった。

 受験日本史の世界では、観応の擾乱は1350年から直義が毒殺された1352年までとされているが、実際には直義の死後もいわゆる「直義党」の抵抗は続き、本当に終わりを告げるにはさらに年月を要した。いくら親兄弟の強い情があろうとも、二頭政治が長期的に安定した政権をつくることは不可能だとぼくは考えている。

 笠松宏至
氏は観応の擾乱を「京都の幕府が名実ともにその形をととのえるための生みの苦しみ」と評したが、言い得て妙な表現だと思う。

 大河ドラマ『太平記』のラストシーンは、ご機嫌伺いに来た佐々木道誉婆娑羅大名の代表と言われる。陣内孝則が演じた)に、尊氏が孫が生まれたこと、その孫に義満という名を付けたことを告げる。その尊氏の目がアップになると、金閣が映っているという趣向であった。
 その足利義満が2代足利
義詮から家督を譲られたのは、まさに直義党の有力武将が勢いを失い、観応の擾乱が本当の意味で終息した1367年、義満10歳の時であった。翌1368年、第3代征夷大将軍に就任した義満が、公武に君臨し実質的な日本国王となったのは周知のとおりである。 

2005.7.24
(2019.9.25 高師直のエピソードに加筆)

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