発展 『建武新政の恩賞は本当に不平等だったのか?
ー東大入試問題に学ぶ3ー
(1991年第2問)

 「恩賞の不平等

 この言葉で連想される歴史的なできごとは「建武新政失敗の原因」であろう。

 ある中学校の教科書には「(建武の新政は)公家重視の政策が続いたため、武士たちの間に失望が広がり、足利尊氏が武家政治の再興をよびかけると、新政は2年ほどでくずれました。」と書かれている。(東京書籍『新しい社会 歴史』

 また高校の教科書でも桐原書店と東京書籍は「恩賞の不平等」、「公家重視」と書かれている
○「恩賞も公家・寺社と武家とのあいだに不公平があって、公武の反目がつのり・・・」桐原書店『新日本史B』
○「新人事、恩賞の配分、所領紛争の裁定などにあたっては公家偏重の方針がとられたため、多くの武士の失望をかった。」(東京書籍『日本史B』。東京書籍は中学・高校ともに恩賞の不平等を意図的なものとしてとらえている。

 それに対して、山川出版社、三省堂、実教の教科書には「恩賞の不平等」、「公家重視」という記載は一切ない
○「東北・関東地方には、それぞれ陸奥将軍府・鎌倉将軍府をおいて、皇子を派遣したが、それらの実体はむしろ鎌倉小幕府というにふさわしいほど旧幕府系の武士を重用したものであった。天皇中心の新政策は、それまで武士の社会につくられていた慣習を無視していたため、多くの武士の不満と抵抗を引きおこした。」(山川『詳説日本史』)
○「建武の新政は後醍醐天皇中心の専制政治であったため、武家社会の慣習を無視した政策が多く、また天皇が家柄や官位を無視して、自由に官職の任免を行ったので、武士だけでなく公家の反発も強かった。」(三省堂『日本史B』)
○「公家・武家を問わず、天皇の側近が登用された。(略)後醍醐天皇の政治は一貫性を欠き、先祖伝来の所領をもつ武士たちの不安を増大させた。」(実教『日本史B』)

 ぼくは本編でも述べたとおり、以前から「建武新政での公武間の恩賞の不平等はなかった」と考えている。

 そしてこのテーマをそのまま入試に出題したのが東京大学の1991年度第2問である。


<東京大学1991年度第2問>

次の文章を読んで、下記の設問に答えよ。

1333(元弘3)年、後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒して一身に権力を集中し、「天下一統」を実現した。平安時代以来、貴族社会では、「先例」に従うことが正しい政治のありかただとする考えが支配的であった。天皇は、「今の先例も昔は新儀だった.私の行う新犠は未来には先例となるだろう」(『梅松論』)という言葉に示されるような意気ごみで、つぎつぎに目新しい政治改革を打ち出した。この急進的な改革に対しては、領地の所有に不安を抱いた武士だけでなく、貴族のなかからも批判があった。政権の中枢にいた北畠親房は、「一統の世」の実現をふり返って、「今こそ積年の弊を一掃する好機だったのに、それどころか、本所の領地でさえもことごとく勲功のあった者に与えられ、由緒ある家がほとんど名ぱかりになってしまった例もある。こうして勲功を鼻にかけた者たちが天皇の政治を堕落させた結果、皇威もますます軽くなるかと見えた」(『神皇正統記』)と記している。

設問

(A) 後醍醐天皇がこの政治改革でめざしたものは何か。3行(90字)以内で述べよ。

(B) 北畠親房は、天皇の政治に対して、どのような立場からどのような批判をもっていたか。3行以内で述ベよ。



<考え方>

(A)後醍醐天皇がこの政治改革でめざしたもの

 政治改革とは、いつの時代でも
ア「今までどうであったものを」を、イ「何をする」ことによって、ウ「どのように変えた」かである。
 まずは与えられた資料から関係する箇所を抜き出してみよう。

ア 「平安時代以来、貴族社会では、「先例」に従うことが正しい政治のありかた」だとされていたのを、

イ 「つぎつぎに目新しい政治改革を打ち出す」ことによって

ウ 「一身に権力を集中」した。

 つまり、「先例に従うことを重視する貴族政治の慣習を改め、新しい改革を打ち出すことで、一身に権力を集中しようとした。」(51字)

 これが基本となる。このうち「一身に権力を集中しようとした」は、三省堂の教科書にある天皇中心の専制政治という表現が的を射ていると思う。あと、40字分、何が説明不足かは言うまでもない。イの新しい改革の部分である。ここを受験生なら誰でも習う教科書の基本的知識で補いたい。

 
幕府(武家政権)の否定、院政の廃止、摂関の廃止、重要政務機関として記録所を設置した、すべての土地所有権の確認に天皇の綸旨を必要とする法令を出した。

 などから字数と相談して文章を組み立てたい。例えば

 幕府政治(武家政権)の否定に加えて、先例重視であった貴族政治の慣習をも改め、院政や摂関を廃止する一方、重要政務機関として記録所を設置し、綸旨に絶対的効力を持たせるなど、天皇中心の専制政治をめざした。

などである。

(B) 北畠親房は、天皇の政治に対して、どのような立場からどのような批判をもっていたか。

 まず北畠親房の立場である。これは後醍醐天皇の側近中の側近!息子の顕家が政権批判をしていたことは本編でも述べたが、親房まで天皇を批判していたのか!! といったところか。
 しかし、「天皇の側近としての立場から」では答えにならない。資料から彼の主張をまとめたい。

@今こそ積年の弊を一掃する好機だったのに、それどころか、本所の領地でさえもことごとく勲功のあった者に与えられた。
A由緒ある家がほとんど名ぱかりになってしまった例もある。
Bこうして勲功を鼻にかけた者たちが天皇の政治を堕落させた。
Cその結果、皇威もますます軽くなるかと見えた。

@について。
積年の弊」とは何か。一掃するべき長年の弊害だが、できなかったこと。討幕には成功しているので、武家政治ではない。続きに「本所の領地でさえもことごとく勲功のあった者に与えられた」とあるので、所領のことだと分かる。土地は誰のものか。本所のものである。しかし鎌倉時代は地頭の荘園侵略が行われ、貴族の経済基盤を脅かしていた。親房は後醍醐天皇がこれを一掃することを期待していたのに、果たせなかったばかりか、勲功のあった者に与えられた。その結果、由緒ある家も名ばかりとなり、経済的に窮乏した。つまり親房は、武士による荘園侵略をやめさせるどころか、勲功重視のため武士への恩賞として本来貴族の本所であった土地まで与えられ、貴族を経済的に窮乏させたと批判している。

Aについて。
由緒ある家」とは何か。これについては発展「鎌倉時代の将軍って何ですか?ー東大入試問題に学ぶ1ー(1997年第2問)」で、「鎌倉時代は、五摂家に代表されるように公家の家格が確定し、家柄と官位が固定化された時代でもあった。」と述べたとおりである。
 まさに三省堂の教科書に記されている「天皇が家柄や官位を無視して、自由に官職の任免を行ったので、武士だけでなく公家の反発も強かった。」わけである。つまり親房は、公家の家格を無視した人材登用を批判している。

Bについて。
「勲功を鼻にかけた者たちが天皇の政治を堕落させた」とは、「勲功によって公家・武家を問わずに登用された天皇の側近が政治を堕落させた。」つまり親房は、勲功重視で公武に関係なく政治に登用され、そのことを鼻にかけた=力を持った側近たちが現れた一方、Aにある由緒ある家が名ばかりになるなど、身分秩序を混乱させ、本来の貴族政治を堕落させたと批判している。

Cについて。
@〜Bのことが、天皇の威信を低下させたと批判している。

 以上のことから、北畠親房の立場とは家格重視の公家政治をよしとする立場である。そのことを踏まえた上で、彼の批判の内容を90字でまとめればよい。


<野澤の解答例>
A 武家政権の否定に加えて、先例重視であった貴族政治の慣習をも改め、院政や摂関を廃止して重要政務機関として記録所を設置し、綸旨に絶対的効力を持たせるなど、天皇中心の専制政治をめざした。(90字)

B 家格重視の公家政治をよしとする立場から、勲功重視による武士への恩賞給与や家格を無視した人材登用が、公家の経済的窮乏や身分秩序の混乱を招き、天皇の威信を低下させたと批判している。(88字)


 これでも建武新政は「人事、恩賞の配分で公家偏重の方針」といえるのだろうか。この東大の問題は今から20年も前のものであり、それでも「恩賞の不平等」をいうからには、桐原と東京書籍の執筆者には何らかの根拠はあるのだろう。それを是非知りたいと思う。

 現状ではやはりぼくは、建武新政に恩賞の不平等はなかったと考える。


2010.12.4


本編へ戻る
窓・発展目次へ戻る
トップページへ戻る