【Ⅰ】問題はこちら (PDFで開きます。)
<考え方>
まずは問1の空欄補充の1について。
①は「律令の条文の補足や改正を目的とする」だから、格で問題ない。
が、たちまち②でつまった。「これは、執権・連署・評定衆などの鎌倉幕府有力者たちが自分たちの制定した法を遵守することを神仏に誓うため」から、この神仏に誓う文書を何と言ったかを知っていれば書ける。起請文なのだが、山川の『日本史B用語集』で出題頻度⑥、「契約し合った内容を守ることを神仏に誓い、違反した場合には神仏の罰を受けることを記した証拠文書。」とある。一橋大学を受けるレベルの生徒は、浄土宗の開祖法然の「一枚起請文」は知っているだろうから、起請文という言葉は聞いたことはあったかもしれない。けれども、ぼくが「一橋大学の解説は最もシェアの広い山川出版社のもので」と銘打っている山川の『詳説 日本史』には室町時代の一揆の説明のところで「中世の人びとは、協力して一つの目的を実現しようとする際に、神仏に誓約して一致団結した状態(一味同心)をつくりだした。」とあるだけで、起請文を書いたとは記されていない。
しかしである。三省堂の教科書には「要求が正当であることを神仏に誓った起請文を書いて」(P.94)、「要求が聞き入れない時には起請文を作成して」(P.117)と、起請文の意味が本文中にしっかりと書かれている。ほぼ同じ文章が、東京書籍の教科書(P.108、P.129)、桐原の教科書(P.146)にも書かれており、これは「一橋大学の日本史出題者は、高校の教科書を読んでいない。」とは言えない。ただ山川の『詳説 日本史』を使用している現役受験生にとっては、いきなり「空欄補充で書けない。」というプレッシャーを与える問いとなった。
③は武家諸法度でOK。これは猫問だった。
④は、ぼくも一瞬戸惑った。「民権とは正反対」の言葉って何だ?しかしこれは⑤が明らかに国民主権(主権在民)であることから、逆算できる問いであった。国民主権の反対は天皇主権。だが「④を中心に据えた、欽定憲法」とあるので、天皇主権を中心に据えたは不自然であろう。「民権」と2文字の正反対の言葉だから「国権」だとぼくは思うが、「天皇大権」でも可だと考える。
問2 これは名称は盟神探湯。ヨミとあるのでカタカナでクカタチ。概要は、山川の『詳説 日本史』から「熱湯に手を入れさせ、手がただれるかどうかで真偽を判断する」もの(方法)。できましたね。
問3 問われているには
(1) わが国を律令国家の建設に導いた
(2) 7世紀後半の国際情勢について
(3) 軍事を中心に
(4) 説明する
ことである。
これは白村江の戦いを中心に7世紀後半の国際情勢を書けばよいのだと、容易に判断できる。白村江の戦いは、東大の大問1でも問われており、奇しくも東大・一橋で同じテーマとなった。
『詳説 日本史』のP.33には
朝鮮半島では、唐と新羅が結んで660年に百済を、668年には高句麗を滅ぼした。難波から飛鳥にもどった斉明天皇のもとで、倭は旧百済勢力による百済復興を支援するための大軍を派遣したが、663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した。この後、新羅が半島の支配権を確立し676年に半島を統一した。白村江の敗戦を受けて防衛政策が進められ、百済からの亡命貴族を中心に大宰府の北方に水城や大野城・・・
とあり、このあたりをまとめればよい。しかし、設問に「わが国を律令国家建設に導いた」という一文があることに注意したい。法制史の話をしているときに、いきなり海外情勢を問うような問題になったため、理由付けをしているだけで、あくまで国際情勢について書けばよいのだともとれる。しかし、深読みかもしれないが、それがなぜ律令国家建設につながるのかに触れたほうが無難なようにも思える。
ぼくとしては、東大2011の第1問の答案となった「防衛政策を進め、中央集権国家(律令国家)建設を進めた」という内容を加えたいと思う。
問4 要求されているのは、
(1) 御成敗式目が
(2) 自己統治型の制定法となりえた
(3) 当時の社会経済的条件と
(4) 政治的条件を
(5) 説明する。
ことである。 『詳説 日本史』のP.95には
承久の乱後の幕府は、3代執権北条泰時のもとに発展の時期をむかえた。泰時は、執権を補佐する連署をおいて北条氏一族中の有力者をこれにあて、ついで有力な御家人や政務にすぐれた11人を評定衆に選んで、執権・連署とともに幕府の政務の処理や裁判にあたらせ、合議制にもとづいて政治をおこなった。
また1232年、泰時は御成敗式目(貞永式目)51カ条を制定して、広く御家人たちに示した。式目は頼朝以来の先例や、道理とよばれた武士社会での慣習・道徳にもとづいて、守護や地頭の任務を権限を定め、御家人同士や御家人と荘園領主とのあいだの紛争を公平に裁く基準を明らかにしたもので、武家の最初の整った法典となった。
これをまとめればよい。ところがである。これまた三省堂の教科書がよくまとまっている。三省堂『日本史B』のP.86~87には、
承久の乱にみられた北条独裁体制への反発をやわらげるために、有力御家人や政務にすぐれた武士を評定衆とし、合議による政務を裁判を行なわせた。こうして、執権・連署・評定衆とによる合議制にもとづく政策決定の体制がととのえられ、幕府上層の集団指導体制による政治の安定期をむかえることになった。
しかし、新補地頭は、現地の荘官・農民や荘園領主との間にあらたな紛争を生じさせた。1232年、泰時は、その紛争解決の基準や合議制にもとづく政治方針を明確にするために、最初の体系的な武家法典である御成敗式目(貞永式目)51か条を制定した。
これはは本当に御成敗式目制定の背景を端的に記している。見事でそのまま解答に使える。
しかし問題文をもう一度見ると、求められているのは、自己統治型となりえた条件とある。とすると、厳密には「○○という条件が整っていたから。」という書き方になるのだが、ここは社会経済的・政治的理由と考えて答案を作成してよいのではないかと判断した。
問5 要求されているのは、
(1) 「私擬憲法」が影響を受けた
(2) 民選議院論とは別の西欧の法思想の
(3) 名称と、
(4) 内容と、
(5) そして今日の法に与えている影響
である。
法思想なので、とっさに「自然法思想」と思ったが、民選議院論ともう一つだから、これは天賦人権論であろう。 山川の『詳説日本史』には、
天賦人権の思想とあり、「万人は生まれながらに人間としての権利(自然権)が備わっているという考えで、これがのちの自由民権運動の指導理論の一つとなった。」とある。内容はそのままでいいだろう。
今日の法に与えている影響は、これは日本国憲法の基本的人権の尊重であることは言うまでもない。しかし『詳説日本史』の憲法に関する記載には、「新憲法は、主権在民・平和主義・基本的人権の尊重の3原則を明らかにした画期的なものであった。」とあるだけで、それ以上の記述はない。
それに対して、三省堂の教科書には、「国民の権利は基本的人権としておかすことのできないものとされ、思想・信条・結社の自由権、労働者の団結権などの社会権があたえられた。」とある。
ただし、憲法が定める基本的人権の尊重の何たるかは、中学校の公民の授業以来、必ず学習していることで、書けなければならない。
ここまでを全部で400字以内でまとめればよい。
<野澤の解答例>
1①格、②起請文、③武家諸法度、④国権、⑤国民主権。2盟神探湯。クカタチ。熱湯に手を入れさせ、手がただれるかどうかで真偽を判断する方法。3朝鮮半島で唐と新羅が結んで百済を滅ぼした。倭は、百済復興を支援するための大軍を派遣したが、663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した。この後、新羅は高句麗も滅ぼし、半島を統一した。白村江の敗戦を受けて倭は、防衛政策を中心に律令国家の建設を進めた。4承久の乱の後、新たに補任された新補地頭と現地の荘官・農民や荘園領主との間で紛争が生じていた。一方幕府上層では、執権、連署と有力御家人からなる評定衆による合議制が整えられており、これらの紛争解決の基準や合議制に基づく政治方針を明確にする必要があった。5天賦人権論。万人は生まれながらに人間としての自然権が備わっているという考えであり、現在の日本国憲法では、国民の権利として自由権に加えて社会権が保障されている。 (398字) 1の④を「天皇大権」とすると400字になる。
2011.3.14
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