『近世編7 三大改革』

 第8章 幕藩体制の動揺と政治改革

【1】 幕政改革  (P.85〜87)

 ノートでは、それぞれの項目ごとになっていますが、三大改革(含む田沼・大御所時代)は、鎌倉文化と並ぶ出題頻度bP候補なので、通してまとめました。改革ごとの詳細は、窓「キーワード 三大改革」を見てください。

 とにかくポイントは、「誰の何という改革で、何が行われ、どんな内容だったか」である。語句とその内容は、もうアブラムシのように這いずり廻って覚えるしかない。史料も出る。(史料編参照)
 例えば、上米は、「大名に石高1万石につき、米(八木=八と木を重ねると米になるでしょう。史料ででる)100石の割合で上納させる」だけではなく、「代償として参勤交代の江戸在府期間を半減する。」までしっかり覚える。なぜなら、参勤交代ネタでも出題される。十分に時間をかけて、うろ覚えにしないこと。それぞれの内容は教科書(場合によっては脚注)に一つ一つ説明してある。ここではみんなが、語句は把握できたものとして、受験用に紛らわしいところを整理しておく。

上米(享保)⇔囲米(寛政)・・・単に語句が似ているだけで意図はまったく違う。

○旗本・御家人の救済=相対済し令(享保)⇔棄捐令(寛政)(天保はほとんどでない)

○田沼の専売の座=銅座・鉄座など⇔金座・銀座・銭座は貨幣・・・78頁参照

○農村復興=旧里帰農令(寛政)⇔人返しの法(天保)
:江戸の治安維持の面あり

○出版統制=山東京伝(寛政)⇔為永春水(天保)
・・・91頁参照
          林子平『海国兵談』(寛政)⇔蛮社の獄(大御所)・・・90頁参照

小石川養生所(享保)⇔石川島人足寄場(寛政)・・・語句が似ているだけ。

 農村復興策とされる「人返しの法」には、江戸の治安維持の面が強くあった。農村から江戸に出稼ぎに来て、日用稼ぎをしている貧民は、飢饉になれば真っ先に「御救米」を求め、応じなければ「打ちこわし」を起こす中心となるものであった。それを追放しようとしたのである。
 また「旧里帰農令」は強制ではなく、奨励策であり希望者には資金が与えられ、「人返しの法」は強制という違いがあるが、結果としてはどちらも失敗であった。(エピソード『旧里帰農令と人返しの法』

 ところで、よく遠山の金さんで、根は善人の憎めない小悪党に「石川島の人足寄場送りとする。」と言った後、優しい声で「しっかり手に職をつけて、オミヨちゃんの元へ帰ってやるんだよ。」とか言って、「金さん、ありがとうございます。」なんて涙をさそっているけど、実はそんなに甘いものではなかった。もちろん人足寄場が無宿人とよばれた今で言うところのホームレス兼やくざの更生施設であったことは本当。しかし本来の目的が、江戸の治安維持にあったため、極めて厳しかった。そりゃそうだろう、やくざへの職業指導が甘いわけがない。さしずめ「人足寄場送りとする。」と言われたら、「え゛ー、そんな〜!」といったところが妥当なところだろう。

 「寛政異学の禁」は要注意。ポイントは決まっている。異学とされたのは、「朱子学以外の儒学」であって蘭学や国学ではない!(正誤問題)また異学を具体的にと問われたら古学陽明学と答えれば良い。この流れの中で、聖堂学問所(73頁)が官立の昌平坂学問所となった。寛政の三博士は、尾藤二洲を中心に押さえる。二の字にも注意。理由は史料中で「・・・、柴野彦助・岡田清助儀も・・・」とあり、「この二人以外で寛政の三博士と呼ばれた人物は誰か。」とくるから。

 株仲間の変遷(87頁)は、正誤問題に対応できるようにしておくこと。
「幕初は禁止(楽市楽座ですから)→黙認→公認(享保の改革)→奨励(田沼)→解散(天保の改革)→再興令(10年後)」である。(エピソード「株仲間解散令と遠山の金さん」へ

上知令水野忠邦失脚の原因」も頻出する。
なお、上知令の目的として、幕府財政の安定はよく理解されていると思う。豊かだった江戸・大坂周辺を直轄にすることで財政収入を増やそうとした。
しかし、見落としてはならないのは、対外防備の強化を図ろうとしたことである。江戸・大坂周辺は幕領・旗本領・大名領などが入り組んでおり、有事の際には統制がとれなくなる恐れがあった。
江戸周辺は、公領や私領が入り組んでいたため治安に不安があったから、大御所時代には関東取締出役(八州廻り)が創設されたのである。

 最後に、日本が生んだ3大経済学者だと、ぼくが思っている田沼意次。ここは意外に盲点となる。新井白石が、長崎新令で貿易を制限(74頁)した。田沼のもとへ、工藤平助からロシアとの交易の利を説いた『赤蝦夷風説考』が届けられる。当時は、貿易をするから日本は赤字になると、みんなが考えていた。しかし、ここで思い出して欲しい。江戸時代の貿易で、日本の輸入品の一位は何だったか。答、白糸(中国産生糸)(71〜72頁)。つまり金・銀を売って、中国から生糸を買っていた。ならば中国が欲しいものを売って、金銀を輸入すればいいではないか。そこで俵物となる。俵物とは中国向け食料用海産物(高級食材)(76頁)だった。ではなぜ田沼は金銀の輸入を目指したのか。ここで、78頁の貨幣・金融の項。江戸は金遣い、大坂は銀遣い。実際には変動相場制だったため、「銀高、金安」となり、江戸は大坂に比べて、為替相場の関係でも物価高となっていた。これが享保の改革時の「米価安の諸色高(詳しくはエピソード「米公方」へ)という世相となる。ではこの一国二通貨という状況をなくせば、少なくとも為替相場の差額で、江戸が物価高になることはなくなるではないか。つまり全国を金遣いにしてしまえばよい。
 そこで登場したのが、南鐐二朱銀(金2朱の価値のある銀貨)など、金遣いを前提とした銀貨だった。
 しかし、田沼の最大の不幸は、こうした重商主義政策を理解できた人物が、当時幕閣には、ほとんどいなかったことだ。田沼の後、20代の若さで老中首座となった松平定信は、「長崎は日本の病である。」と言って、早速、長崎貿易縮小へと方向転換をした。田沼より約100年前に、フランスではルイ14世のもと、蔵相コルベールによる重商主義政策で、絶対主義が頂点に達したのとは対照的である。(エピソード「実は名君! 頭脳明晰な身体障害者 ー徳川家重ー」へ
 ちなみに、田沼が専売にした朝鮮人参(人参座)。当時600gが大工さんの日給14年分だった。娘が病気のおとっつぁんのために、少々働いたところで、買えたものではなかった。

(2018.11.3 上知令の目的を加筆)
(2005.3.12更新)

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