江戸幕府九代将軍。八代将軍・吉宗の子。一七四五年(延享二)、家督をゆずられ将軍となる。生まれつき虚弱である上に、若いときから大奥で酒宴にふける生活を過ごしたために健康を害し、言語も不明瞭となって、側用人・大岡忠光のみがその言葉を理解しえたという。六〇(宝暦一〇)年、家治に家督をゆずり、翌年亡くなっている。
これは東京都某区の観光協会公式サイトに載せられている徳川家重の紹介文である。
『徳川実紀』には、「近習の臣といえども、常に見え奉るもの稀なりしかば、御言行の伝ふ事いと少なし」、「御みずからは御襖弱にわたらせ給ひしが、万機の事ども、よく大臣に委任せられ、御治世十六年の間、四海波静かに万民無為の化に俗しけるは、有徳院殿の御余慶といへども、しかしながらよく守成の業をなし給ふ」と記されている。
つまり「近臣でも常に目通りがかなう者がまれだったので、伝えられている言行が非常に少ない。自身は弱々しかったが、万機幕閣によく任せ、16年の将軍在位中、父親であった有徳院(吉宗)の遺産もあって、なんとか平穏を無事に保つことができた。」とされている。
家重は江戸の町民から『小便公方』とからかわれ、『アンポンタン』とあざけられた。
頻尿症と尿漏れがあり、遠出するときなど各所に便所を設けたこと、また、言語が明瞭ではなく、彼の言葉を理解できたのは、側用人の大岡忠光だけであったともされることなどから、このような悪口を言われたのである。
そのため大岡忠光は、家重によって小身から大名にまで取り立てられ、専横をふるった悪役として描かれることも多い。
家重の弟には、文武に長けた次男宗武(のち初代田安家)や四男宗尹(のち初代一橋家)がおり、家重は将軍の継嗣として不適格と見られることも多く、実際、老中によって廃嫡されかかった事もある。しかし「諸事権現様御定めの通り」がスローガンである吉宗の「長子相続主義」で、家重は将軍職を譲られて第9代将軍に就任した。ただし、宝暦元年(1751年)までは吉宗が大御所として実権を握り続けている。家重への将軍職継承は、家重の長男家治(10代将軍)が非常に聡明であったため、彼への継承を見込んだためとも言われている。
生来病弱の上、若いときから酒色に走ったが、生まれの良さで将軍になれた暗愚な君主といわれてきた。
しかし、『徳川将軍家十五代のカルテ 』(篠田 達明/2005年)は、その通念を180度転換させてくれた。一部を紹介させてもらう。
増上寺に埋葬された家重の遺体から明らかにされたのは奥歯のいちじるしい磨耗である。家重の奥歯は上下の歯列すべてにわたって咬面が滑らかに磨り減っていた。アテトーゼ・タイプでは物を噛む咬筋の作用が強く、たえず歯ぎしりするため奥歯が磨り減る傾向にある。家重の歯列にもこのような特徴がはっきりあらわれていた。脳性麻痺の人たちは生まれるとき運動神経はやられたが、知能は正常の場合が多い。
(※アテトーゼ・タイプとは、例えば机上にあるコップをとろうとすると、手が思わぬ方向に動いてしまう不随意運動のタイプ である。)
これを読んだ時、すぐに思い浮かんだのが北島行徳氏の『無敵のハンディキャップ―障害者が「プロレスラー」になった日』(第20回(1998年) 講談社ノンフィクション賞受賞)と、その続編『ラブ&フリーク』に登場する人物が、「脳性麻痺による体の痛みを紛らわすために酒を飲むのだ。」と言い訳する場面である。
家重が、若いときから酒を好んだのも、脳性麻痺からくる体の苦痛を紛らわせるためだったのではないか。そう思った。
家重の言葉を理解できたのは大岡忠光だけだったとされているが、これも障害児(者)とある程度以上の期間向き合ったことがある人なら、すぐにピンと来るのではないか。
言語不明瞭な障害児(者)が言っていることは、はじめは何を求めているのかさっぱり分からない。しかし、いつも聞いていると、だんだん分かってくる。言葉を発することができない障害者相手でも、毎日接していると、その表情や生活習慣、時間帯などから、何となく要求していることが分かるようになる。
要は、家重に対して真剣に向き合った者が、大岡忠光しかいなかっただけのことではないのか。
自分が優れていると自負のある者の中には、無能とされるものを見下し、そのくせ、自分にできないことができるものを妬み、悪く言う者がいる。(本当にぼくの個人的な感覚だが、松平定信もその一人だと思う。)
「大岡忠光は、上様のいうことが分かってええなぁ。なんで分かるんやろ。」
それはおまえが誠実に将軍と向き合おうとしないからだ。そう言ってやりたくなる。
『徳川実紀』には、偉大な徳川吉宗の遺産もあって、なんとか平穏な治世であったと書かれているが、そもそも家重の時代に百姓一揆が多発したのは、年貢収奪の権化のようだった吉宗の「負の遺産」によるものである。家重の代には、代官の役割も徴税重視から民政重視に変更されたと記しているものもあった。
家重の意志を唯一理解できたという大岡忠光について、彼が専横をふるったという記録をぼくは見つけることができない。それどころか残された史料からは、私利私欲のない清廉潔白な人物であったとしか読み取れない。
その代表的なものが、当時オランダ商館長をしていたイサーク・チチング(Isaac Titsingh)が、著書『将軍列伝』の中で記した次の文章である。
家重は大岡出雲守(大岡忠光)という真実の友を持っていた。大岡出雲守はまことに寛大な人物で、他人の過失も咎めなかった。あらゆる点で大岡は上にあげた吉宗お気に入りの3人の家来(吉宗の御側御用取次であった加納久通、小笠原胤次、渋谷和泉の3人の事)をお手本にしていた。それで、その死後、大岡について次のような歌ができたのである。
大方は出雲のほかにかみはなし
その意味は、要するに「出雲(=忠光)のような神はない云々」ということであるが、詠み人は、忠光の立派な性質のすべてについていうことは皮相なことであるとつけ加えている。「我々は皆、そのこと(忠光の人柄と業績)をよく見て知っている」といい、また、「そして涙を流して彼(=忠光)の思い出に感謝を捧げるのだ」ともいっている。
その「真実の友」であった大岡忠光が、宝暦10年(1760)4月26日に死ぬと、家重は同年5月13日に家治に将軍職を譲って大御所と称した。そして、翌宝暦11年6月12日、享年51歳で世を去った。
家重が残した事実上の遺言は、自身が抜擢した田沼意次を、息子の10代家治にも重用するように勧めるものであった。ぼくが田沼意次を「日本が生んだ3大経済学者の一人」と高く評価しているのは、以前に述べたとおりである。(通史編「近世編7 三大改革」参照)
こうして見ると、家重は決して暗愚ではなく、自分の身体が不自由であった分、むしろ人材登用など、知性を使う分野においては聡明であったと言える。また、息子家治同様、非常に将棋が強かったとも言われている。
かつて、「エピソード『暗君の哀しみー北条高時ー』で、「敵役以上に歴史上で不遇を託っているのは、「暗愚、愚か者」として定着している人たちであろう。」と記したが、 その身体的障害ゆえに、幕臣ばかりか、庶民からも軽んじられた徳川家重の無念は、いかばかりであったろう。
2012年1月末に、ぼくは東京芝の増上寺に行く機会を得た。ちょうどその日は、徳川家の墓所の特別公開を行っていた。
他の人たちは、ほとんど大河ドラマの中心人物となった「2代将軍秀忠と江」や「和宮」の墓に注目している中で、ぼくは家重の墓を探して、直行した。
一回り墓所を見ていると、備えられている花を新しいものと交換する時間となった。せっかくだから、新しい花が供えられた状態で写真を撮ろうと待っていたら、本当に偶然なのだろうけど、交換が始まってから30分弱、家重の墓の番が一番最後になった。
くそっ、やっぱり俺の評価はそんなものかよ
と、家重になりかわって、つぶやいてしまった。
増上寺にある徳川家重の墓