エピソード 『旧里帰農令と人返しの法』
 
 ぼくのノート(近世編7 三大改革)でも「○農村復興=旧里帰農令(寛政)⇔人返しの法(天保)」としているように覚えることが多い。
 そして、旧里帰農令は強制ではなく奨励策であり、希望者に資金が与えられた。それに対して「人返しの法は強制だった」という違いがあったと学ぶと思う。旧里帰農令は、寛政の改革の目玉政策であり、希望者を募り、資金を与えたのだから成果があったように見えるが、結果から言うと、両方とも失敗であった。

 なぜ失敗かというと、旧里帰農令への応募者は4人だけだったからである。

 旧里帰農令が出された7年後の寛政9(1797)年、時の老中安藤信成は、北町奉行小田切直年に次のような指示を出した。

老中:「旧里帰農令」が失敗したことからみても、元農民を帰農させるためには、商人より農民の方が利益があるという状況を作らなければ成功しない。その方策を考えよ。

町奉行:「旧里帰農令」の失敗は、手当が少なかったことにある。しかし、実際に必要になる手当を支給するには、莫大な費用がかかる。商業が農業より不利になるような手は見つからない。

 天保12(1841)年に、老中水野忠邦は、「人返しの法」の発布に向けて、町奉行に次のように指示をした。

 江戸の人口が増加したので,農村から江戸に出稼ぎにきている者を農村に帰すための方策について,町奉行としての意見を提出せよ。

 命じられた町奉行は、前述の約45年前に行われた老中と町奉行とのやり取りの記録を示して、すでに江戸に住んでいる元農民に、帰農を強制することは困難である(実際には不可能である)ことを述べた。
 そのうえで、「ここは、人別改めを厳密にして、江戸で出稼ぎをする場合は
季節的な者を除いて、領主の許可書や村役人の送り状を持参していなければ、家主が長屋を貸すことを禁止するなどの規定を設けるべき」だと答申した。

 この水野忠邦に答申した町奉行が、遠山景元=時代劇のスーパーヒーロー「遠山の金さん」である。

 実際、当時の越後の代官も、農村の住民の意識を次のように記している。
「汗水流して米を作っても、なかなか米を食べることができなかった農民が、江戸に出て「其日稼」をしたら、毎日米が食べられるという噂がある 。」
 代官たちの認識も同じであり、これは「噂」ではなく「事実」であった。
 
 では、この金さんの意見は、水野忠邦に受け入れられなかったのか。
 
 「人返しの法」について、日本史探究の教科書(山川の『詳説日本史探究』)には、
江戸の人別改めを強化し、
百姓の出稼ぎを禁じて、江戸に流入した貧民を帰郷させる人返しの法を出し、天保の飢饉で荒廃した農村の再建をはかった。(注)この強制で、無宿人や浪人らも江戸を追われ、江戸周辺の治安はますます悪化した。」
と書かれている。
 そして、教科書に載せられている史料は、次のようになっている。

一 在方のもの身上相仕舞い、江戸人別ニ入候儀、自今以後決して相成らず。……
一 近年御府内江入込み、裏店等借請け居り候者の内ニハ、妻子等も之無く、一期住み同様のものも之有るべし。左様の類ハ早々村方江呼戻し申すべき事。……

 
訳すると
一、農村の者が所帯をたたんでやって来て、江戸の人別に登録することは、以後、絶対してはいけない。……
一、近頃、江戸へ入り込み、裏店などを借りている者の中には、妻子もなく一年契約の奉公人同様のものがいるであろう。そのような者は、ただちに村へ呼び戻すようにせよ。……

〇「所帯をたたんでやって来て」はダメだけど、季節的な者は禁止されていない。
〇「以後、所帯をたたんで江戸に来ること」は禁止。つまり、すでに江戸に住んで人別帳(=人別改め)に登録されている者は基本的に江戸に留まることを認められている。
〇「妻子もなく一年契約の奉公人同様のもの=妻子もなくきちんとした生業についていない者」は追放する。つまり、家族がいて生業に就いている者は、江戸に留まることを認められている。


 金さんの意見が、通っているのである。
 『詳説日本史探究』の記述は、誤りではないけれど、微妙に不正確というところである。

 水野忠邦が、江戸に200カ所以上あった寄席や芝居小屋(歌舞伎)を全廃しようとして、金さんが何とか守ったことは、知っている人もいると思う。
 ぼくは2冊目の本(『やりなおし高校日本史』)の「三大改革」の章の最後を「いつの時代でも、人はそれなりに一所懸命に生きています。しかし常に気を張り詰めて生活できるはずもありません。それは豊かであろうが、貧しかろうが同じです。 下層の庶民のささやかな楽しみまで弾圧した水野忠邦には、そのことがわかっていなかった。それも天保の改革が失敗した大きな要因だと、ぼくは考えます。」と結んだ。  

 この水野忠邦への民衆の反感がいかに大きかったかは、彼が失脚した時、人々が水野に屋敷に石を投げ込んだことからもうかがえる。
 先日まで老中だった人の屋敷に石を投げ込むことが許されたというのも驚いたが、ぼくが一番、感心したのは、その時、詠まれた次の川柳である。

 『ふる石や瓦とびこむ水の(水野)家』(ふるいや、かわとびこむみずのうち
 『古池や蛙飛びこむ水の音』      (ふるいや、かわとびこむみずのおと

 4字しか違わない。これ、凄いと思いませんか!!

 なお、このエピソードの内容は、2023年11月3日に行われた「土曜市民講座 東大入試で学ぶ日本史」の第7期第4講で話したものです。

2023.12.2

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愛媛県立今治東中等教育学校「土曜市民講座」 通算第7期の様子
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