水野忠邦が株仲間解散を命じた理由は何か。中学校の教科書(東京書籍)には「物価を下げようとして」と書かれている。また、山川の『詳説日本史』には、「物価騰貴の原因は、十組問屋などの株仲間が上方市場からの商品の流通を独占しているためと判断」して在郷商人らによる「自由な取引で物価の引き下げを期待したため」とある。つまり、水野は株仲間が江戸の物価騰貴の原因だと考えたわけである。
しかし、物価騰貴の原因については大坂町奉行をつとめた阿部正蔵が、株仲間の解散以前に「大坂の二十四組問屋の集荷機能が低下していること」であると指摘していた。
この指摘は水野の認識とは正反対のものだが、実はこれが正解であった。生産地から上方市場に商品が届く前に、下関や瀬戸内海沿岸ですでに商品が売買されてしまい、大坂へものが入らなくなっていたのである。
株仲間は、こうした中で辛うじて流通路を維持して、「なけなしの商品」を集めて江戸に送っていたのである。つまり、株仲間が物価をつり上げていたのではなく、その反対であった。
このことは、株仲間の解散後、大坂・江戸に入る商品は極端に少なくなり、より一層の物価上昇を招いたことからも明らかである。
(だからもし入試で「株仲間解散の理由」を問われて、「株仲間が物価をつり上げていたため」と答えれば×となる。しかし「株仲間が物価高の原因だと考えたため」なら○である。記述問題は、考えて言葉を使わなくてはならない。もちろん望ましいのは「在郷商人らによる自由な取引で物価の引き下げを期待したため」である。)
そして幕閣の中にもこの正しい認識を持っている者は存在していた。その一人が遠山景元(金四郎)であった。彼は南町奉行であった1845年に、阿部正蔵と同様の認識から株仲間の再興を建議したが、却下されている。
「えっ!南町奉行? 遠山の金さんて北町奉行じゃないの?」
そうなんです、実は遠山の金さんは、27代北町奉行であり、のちに33代南町奉行なんです。
時代劇では、北町奉行時代がよく描かれている。彼は水野忠邦の天保の改革時に北町奉行であった。倹約令をはじめ、女浄瑠璃や女義太夫も風俗を乱すという理由で禁止し、寄席を廃止した水野に対して金さんは、「江戸の賑わいを消すようなことがあっては、却って仁政の趣旨に反する」といって、厳格な統制に批判的な上申書を提出している。現に株仲間解散令の時も反対であった。そのため金さんは、水野忠邦と敵対したように描かれることが多い。
しかし、金さんを北町奉行に登用したのも水野忠邦であった。では、なぜ水野VS金さんの図式で描かれることが多いのか。それには、金さんと同時期の南町奉行鳥居耀蔵(とりいようぞう)の存在が大きい。
鳥居耀蔵は、大学頭林述斎(寛政異学の禁の推進者)の子。旗本鳥居家の養子となった。
遠山の金さんが北町奉行になったころ、南町奉行は金さんと並んで下情に通じ温情に厚いことで知られる矢部定謙(さだのり)であり、彼もまた極端な統制に反対であった。水野忠邦は、矢部を旧職にあった時の部下の不正事件にかこつけて罷免に追い込み、代わって目付であった鳥居を南町奉行に抜擢した。この処置に憤った矢部は、ハンガーストライキをして餓死することとなる。
鳥居は倹約令、奢侈の禁止について非常に厳しく推進をはかり、違反者摘発におとり捜査が常套というものであった。そのため鳥居甲斐守耀蔵をもじって、「妖怪」とあだ名された。
鳥居は江戸町奉行に就任するとまず、江戸十組問屋などの株仲間の解散を命じた。これ以降彼は、水野の「天保の改革」路線を体現することに努め、蛮社の獄などを主導することとなる。さらに、1843年には、水野と謀って、遠山を大目付として、名目上は栄達させ第一線から退けることに成功した。
しかし1843年、上知令をめぐって、老中土井利位(どいとしつら=顕微鏡で雪の結晶をスケッチしたことで有名)ばかりか紀州藩までが反対に立ち、水野が孤立すると、鳥居は一転して反水野派にまわった。
このため、水野失脚後も政治生命を保ったが、人生、そう何でもうまくはいかないものである。翌年、水野が老中首座に復帰すると丸亀藩(現香川県)に幽閉の身となった。(もっとも水野も1年で罷免されるが)
明治維新で25年ぶりに解放されたとき、鳥居が「俺の言ったとおり蘭学を禁圧しなかったから、徳川は倒れたのさ」と言ったという話は有名である。
ただし、これは金さんを時代劇のヒーローに祭り上げた後世の人々が作り上げた人物像であって、実際の鳥居耀蔵は極めて有能な官僚であったという見方もある。事実、中間管理職としての状況判断力のよさをうかがわせる場面もある。
閑話休題・・・。遠山の金さんと株仲間の話に戻したい。
鳥居耀蔵失脚後、大目付から町奉行という破格の降格人事で町奉行(南町奉行)の職にもどった遠山の金さんは、1845年、株仲間の再興を建議する。時の老中首座は、27歳の阿部正弘であった。あの「ペリー来航の時の老中阿部正弘」である。阿部は一度はこれを却下するが、翌年遠山に問屋再興の是非について調査するように命じている。1848年、金さんは株仲間再興を主張する上申書を提出した。結果として1851年,問屋再興令が出されることとなった。株仲間解散令から10年後のことであった。内容は「株仲間解散は政策の失敗」と認めた上で問屋仲間の再結成を命じるものであった。
(ぼく個人的には、幕府がその政策の失敗を公に認めたことは大きな驚きであり、ここにもペリー来航に際して広く意見を求めた阿部正弘の実直な姿勢が出ていると思う。)
しかし厳密に言えば、これは問屋再興令であって、いわゆる運上、冥加を納入する代わりに特権を認められるという株仲間の再興令ではなかった。
この販売独占を認められて流通経路を維持していた株仲間を解散させ、実質的には復興させなかったことのツケは、意外なところで幕府に回ってくることになる。それが「開港にともなって、在郷商人たちが物資を横浜に直送することによる生活必需品の不足→物価騰貴→五品江戸廻送令→貿易に対する反感→攘夷運動→倒幕運動」であった。
ところで・・・
遠山の金さんといえば、桜吹雪の入れ墨である。これについては、本当にあったという説、いや実は女の生首というすさまじいものだったという説、全くの作り話で、入れ墨などなかったという説がある。なぜこんなふうに曖昧になったかというと、若い時は本当に「遊び人」だった金さんは、役人になってからは決して人前で素肌を見せなかったからである。
そりゃそうだよな、町奉行といえば今で言う「東京都知事」兼「最高裁長官」兼「警視総監」兼「検察庁長官」だもんなぁ。それが簡単に人前で脱いだらいかんでしょう。
2005.3.12