(P.88)
江戸時代の一揆のポイントは『代表越訴型一揆(17世紀)→惣百姓一揆(18世紀)→世直し一揆(19世紀)』に尽きる。
越訴とは、ここでは身分を飛び越えて、直接、上長に訴え出ること、直訴である。(ちなみに、詳しい人。鎌倉時代の「永仁の徳政令」でも「越訴の禁止」というのがあったが、これは再審のこと)例えば磔茂左衛門も死刑になったが、訴えられた真田信利も改易になった。刺し違えるわけである。時代劇で、老中か誰か駕籠の前に飛び出して、書状を出して「どうか、どうか〜」とかやってるじゃないか。あれ。だから「かご訴」とも言った。(発展「一揆と直訴」へ)
これに対して、みんなで押しかけるのが惣百姓一揆。通常は、訴状の最初に名前があった者が頭取(リーダー)であるが、これは領主に処罰される可能性が極めて高かった。そこで登場したのが、傘連判状(車連判状)である。これは平等で強固な結束を図るとともに、頭取や発頭村(指導村)の判断を困難にし、処罰を免れるためでもあった。頭取が分からなければ、さすがに村民全員を殺すことはできないからである。「(亡所になれば一番困るのは領主)「傘連判状は代表越訴型一揆の時・・・」という正誤問題があった。もちろん×。
実は、傘連判状そのものは、中世の国人一揆の際にも、参加者が平等の関係であることを示すものとして用いられていた。
幕末は、ノートでは世直し一揆とまとめたが、具体的には村方騒動(村役人のリコール要求)や国訴(大坂の問屋による流通支配に反対する大坂周辺の百姓や在郷商人による広域訴訟)などである。なお、国訴は合法である。この背景には、貨幣経済の進展によって、本百姓層もリッチな豪農とプアな小百姓。さらに日雇いや奉公人に転落する階層に分かれたことがあった。
そして、最大の目玉は、飢饉と一揆の関係のグラフの読み方。要は後ろから見る。最後の山が幕末の世直し一揆→次のくぼみが天保の改革→次の山が天保の大飢饉→次のくぼみが寛政の改革→次の山が天明の大飢饉。つまり、一揆の間に改革がある。享保の大飢饉は享保の改革の途中にあるので、グラフからの出題はないと思ってよい。
(P.89)
熊本・米沢・秋田は、幕末ではないことに注意。後は藩と藩主の組み合わせ。「米沢藩の上杉治憲」は頻出。
目玉は文句なし、鹿児島(薩摩)と長州の比較。やっていることはほとんど同じ。
薩摩藩について、注意することを一つ。薩摩藩は琉球王国と密貿易を行ったのではない。薩摩藩は琉球との通商交易権の独占を幕府に認められていた。
中国(清国)との貿易は、原則として長崎においての幕府の独占であったが、薩摩は、琉球経由で得た中国の物品(唐物)を日本国内で売却することを認められていた。当然、その内容と量には制限が設けられていたが、薩摩藩は、幕府が許可している以上の唐物(御禁制品)を琉球を経由して入手して上方市場に流した。これが琉球王国を介した中国(清国)との密貿易であり、幕府に追求されたものである。
借金の事実上、踏み倒しであるが、薩摩はスケールが大きい!250年で払うと言った。改革が始まったのが1827年。250を足すと、返済期日は2077年となる。
残りは、佐賀藩(肥前)と幕府が要注意。
○佐賀=鍋島直正+均田制+反射炉+有田焼の専売
○幕府=江川太郎左衛門+伊豆韮山に反射炉
ちなみに、江川太郎左衛門の反射炉は、今、観光地になっていて、そのスケールの大きさを感じさせる。佐賀の方は・・・、まあ、行ってごらん。小学校の校庭の片隅に、小さなレプリカが建ってるから(二度と行かん)
なお、水戸藩(徳川斉昭)では、藤田東湖や会沢安(『新論』)が尊王論を展開した。ここから水戸学と呼ばれる独特の尊王論が生まれ、幕末の動乱に影響を与えることとなる。
(2011.4.29加筆)
(2020.2.9 薩摩の琉球王国との密貿易に関する解説に加筆)