『近世編2 統制機構/封建的身分制度と負担』

P.69は我ながらよくまとまっている自信作である。

5 大名統制
 大坂夏の陣が終わった1615年、一国一城令が出された。大名が居住あるいは政庁とする一つの城郭のみを残して、その他の城は廃城にするという内容であった。
 さらに同年(1615年)に出された武家諸法度元和令では、居城の無断での修補を禁じ、新規の築城を厳禁した。
 なお、武家諸法度元和令と禁中並公家諸法度はともに起草者が金地院崇伝である。
 「武家諸法度元和令は、大坂の役の後、家康が2代秀忠の名で、伏見城で発布」している。
 内容は、文武に励むなど大名としての心構えを示すとともに、城の新築や無断修理を禁止し、大名間の婚姻には許可を必要とすることなどを定めている。

 3代家光の時の武家諸法度寛永令参勤交代が制度化された。これは、元和偃武(大坂の役で豊臣氏が滅亡して、戦乱の世が終わった)により、戦乱がなくなったことから、軍役に代わるものとして、大名を幕府の監視下に置き、臣従と忠誠を確認するもの(儀礼)となった。
 大名御手伝普請とともに、大名に大きな負担となったが、それは結果であって、目的ではない!

 参勤交代の結果、「五街道をはじめとする交通網が整った」こと、また1635年の寛永令で参勤交代が制度化されたのであって、「慣例としてはそれ以前からあった」こと。そして、「すべての大名が在府在国1年交代ではない」(関東の大名は半年ごと。対馬の宗氏は3年ごと。役付き大名(老中など)は江戸常府)は私大では正誤問題でくる。

 また、寛永令では「一五百石以上之船停止之」と、同年にだされた日本人の海外渡航の禁止と連動する形で、500石積以上の大船建造が禁止されている。
 ただし、この条文は4代家綱の寛文令で「一五百石以上之船停止之、但荷船制外之事(但し商船は除く)」とされ、制限がかかるのは軍船(関船といった)のみとなり、商船の制限は撤廃された(でなければ樽廻船や菱垣廻船が「千石船」を運航できたはずがない)。(エピソード「武家諸法度寛永令の大船禁止令とその後」へ

6 朝廷統制
 禁中並公家諸法度は、朝廷運営の基準を明示したものであり、天皇の生活や公家の家業・席次にまで規制を加えた。第1条の「一、天子御芸能之事、第一御学問也。」から、以前は教科書にも、「幕府は天皇は学問をしていればよいとして政治から遠ざけようとした」と説明されてきたが、近年では、一部の教科書を除いてこのような記述はなく、あくまで「朝廷運営の基準を示した」と説明されている。発展『天皇は政治学を学べ−禁中並公家諸法度第1条の持つ意味−』へ
 史料で出題されたら、第16条の「紫衣の寺住持職、先規希有の事也。・・・」から、紫衣事件→後水尾天皇退位」が聞かれる。
 あと武家伝奏公家から2名で、幕府から役料をもらう、連絡係)も確認しておきたい。京都におかれた京都所司代が、監察した(鎌倉幕府=六波羅探題とのひっかけがある)。

7 寺社統制
 寺社は寺社奉行の監察下におかれた。(当然やろ。他に寺社奉行は何をするのか。)
 当初は金地院崇伝が各宗個別の寺院法度を出し、寺院を序列づけて本末制度を整えさせて、僧侶の心得や儀式の行い方、衣服にいたるまで細かく指示した。しかし、金地院崇伝の死後は、そんなややこしいことでは訳がわからなくなり、全宗共通の諸宗寺院法度(1665)を出した。
 最大のポイントは、すべての人民をどこかの寺の檀家に強制した寺請制度である。各寺が檀家を記載した宗門改帳(のち宗旨人別帳)が戸籍の役割を果たした。この寺院が発行する身分証明書が旅行時のパスポートとなる。これが寺請証文である。
 寺請制度で取り締まりの対象となったのは、キリスト教徒はもちろんだが、それ以上に日蓮宗不受不施派であった。
 諸社禰宜神主法度は、嫌がらせのようにタマ〜に出るが、寺院関係をしっかりおさえておけばよい。 

 なお、江戸時代初期の法度については、2011年度に京都大学が出題している。エッセンスはこちらで確認してほしい。(入試問題解説 「2011年度京都大学その2」へ)

8 農民統制
 農民統制について。田畑永代売買禁令(1643)は字を見れば内容は分かる。分地制限令は、「分割相続による田畑の細分化防止」がキーワード。なお最初(1643)は、一般百姓は10石以下の田畑の分地を制限していたが、後(1713)には、分けた後10石以上なければ分地を認めないと改められた。
 田畑勝手作りの禁は、「たばこ・木綿・菜種」などの商品作物を本田畑に植えることを禁止した。

 かつて「慶安触書は、受験問題の花形だったが、近年、その存在そのものが怪しくなっている。そのため以前言われていた1649年というのが出題されるとは思えない。ただ、このような「日常生活にまで干渉」するような姿勢で為政者が臨んだということは理解しておきたい。
 これらの目的を問われたら、全て「本百姓体制を維持し、年貢を確保するため。」と答える。史料は重要。必ず確認すること。(史料編参照)


P.70

9 封建的身分制度

 ここは注意する必要がある。長い間「士農工商という厳しい身分秩序があった。」と言われてきたが、これは誤りである。
 実際は支配者身分である「武士」(天皇家・公家と上層の僧侶・神官を含む)に対して、被支配身分としての「百姓」(農業を中心に林業・漁業に従事する)と「町人」(手工業者である諸職人、商業をいとなむ商人を中心とする都市の家持)とに分けられていた。つまり身分は主として「武士」と「百姓」と「町人」の3つであり、あくまで「士農工商はイデオロギー」に過ぎないのである。

 確かに「身分ー職業ー居住地」が連動しており、俗に『三位一体の制度(差別)』(キリスト教の人が聞けば、噴飯ものの名称である。)と言われる。 しかしこの身分も実際には流動的であった。

 そして、えた・非人に関しては、その「下」ではなく、むしろ社会の「外」であることが、現在の研究では指摘されている。(発展『教科書記述と江戸の身分制度』へ

(1)武士
 武士には苗字・帯刀ほかの特権があったことは事実である。しかしよく言われる「切捨御免」はないに等しかった。何より支配身分としての道徳性を厳しく要求された。(エピソード「じっと我慢の子であった」へ)

(2)百姓
 基本的な村の考え方は、室町時代の惣村と同じである。
 人口の8%の支配者身分武士が、強権的な統制だけで80%の百姓をおさえられるはずはなく、それこそ俗に言われる「慶安触書」に「年貢さえすまし候得ハ、百姓程心易きものは之れ無く」とあるように、年貢さえ納めれば、村は自治であった。だからこそ村法(村掟)があり、村請で年貢を納入し、村法をやぶる者には「村八分」という村独自の制裁を加えたのである。

 違いは、惣村の指導者(番頭・おとな・沙汰人)には上下がないが、村方三役には序列があることぐらいである。(名主の補佐役が組頭、監査役が百姓代)。彼らはもちろん土地を持ち、検地帳に登録された本百姓である。そして検地帳の登録された本百姓のみ年貢納入の義務があるのであって、水呑には年貢納入義務はない

 百姓の負担は、「本年貢とも呼ばれる本途物成、「雑税=小物成、「一国単位→国役、「村高→高掛物、「街道筋→伝馬役をキーワードと一問一答で正確におさえる。「本百姓が登録された→検地帳」⇔「寺請制度の結果すべての人民が登録された→宗門改帳(69頁)」の区別は盲点。
五人組は連帯責任、相互扶助は・もやい」(正誤問題)。

 本年貢は米納とあるが、のちには貨幣納も可。伝馬役を負担した村を助郷というのが正確だが、伝馬役を助郷役と書いても○をくれる。しかも伝馬役はすべての村が負担したのではない(街道筋(街道沿い)の村にのみかかった)はポイント。
 「検見法(作柄に応じて年貢率を決定)」と「定免法(豊凶にかかわらず年貢率一定)」は、説明を書けるようにしておく。これは吉宗の享保の改革の時、検見法から定免法になったという時にも出る。
 「村政に参加できたのは本百姓のみで、小作・水呑は参加できない。」も正誤問題で頻出する。

(3)町人
 町でも村と同様、町政に参加できたのは、土地と家を持っている地主・家持であって、彼らを町人という。「借家住まいをしている長屋の熊さん、八ツァンは町人ではなく、町政に参加できない。」時々時代劇で、悪代官が「町人の分際で」などと言っているが、町人だっから上等である。
 村が村法に基づいた自治が行われていたのと同様に、町は町法に基づいて自治が行われていた。
 職人の「親方と徒弟」。商人の「主人ー番頭ー手代ー丁稚」の名称と序列は知っておきたい。
 「城下町では、武家地・寺社地の他、町人地でも業種ごとに分かれて住んでいた。」ことは、松山に住んでいたらわかるでしょう。木屋町・鉄砲町など、今でも残っている。

 また、教科書には江戸時代は「家長(戸主)の権限が強く、家の財産や家業は長男をとおして子孫に相続され、女性の地位は低いものとされた」とある。特に引き合いに出されるのが、『三行半』と呼ばれる夫から妻へ渡されるの離縁状であり、これがなければ妻は再婚できなかった。「女子三従」(女は幼い時は親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従えという、柔順第一という教え)を説いた『女大学貝原益軒という説あり)は有名である。でも実際には女性は虐げられていたとは、必ずしも言えないけどね。(エピソード「誰が守るか『女大学』」へ

(2003.1.22改訂)
(2010.3.3改訂)
(2011.3.6加筆)
(2014.1.4整理)
(2015.12.25朝廷統制を訂正)
(2016.3.20武家諸法度寛永令に加筆)

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