エピソード 『武家諸法度寛永令の大船禁止令とその後』
 
 2016年度東京大学の第3問は、江戸幕府の大船禁止令をテーマにしたものだった。
 
その中で、徳川家光の武家諸法度寛永令が取り上げられていた。詳しくは入試問題解説 東京大学2016年度第3問 江戸時代の大船禁止令」を参照にしてほしい。

 設問は、
大船禁止令はそもそも徳川家康が、関ヶ原の戦いで東軍に味方した結果、領地を加増された豊臣恩顧の西国大名の軍事力を削減するために発したものだったのだが、それが鎖国の形成時期に家光が、外洋航海ができる船を禁止したことから、幕末には本来の趣旨とは異なった理解がされるようになったことを受験生に気付かせるものだった。

 この問題を解きながら、「規則は、一度つくられると、本来の目的を達成することよりも、規則そのものを守ることが目的化する危険性がある。歴史を学ぶ者は、常にその意味・意義の確認を怠らないことが大切だということを考えさせてくれる」と思った。

 寛永令の「五百石以上之船停止事之(五百石以上の船停止の事)」は、どの教科書にも史料として掲載されており、受験生は、1635年の鎖国令の「日本人の海外渡航と在外外国人の帰国の禁止」とあわせて学習する。そして、この条文は、その後も日本が開国するまで引き続いて用いられたように思われがちである。

 しかし、実際にはこの寛永令の条文は、続く4代徳川家綱の武家諸法度寛文令で「五百石以上之船停止之、但荷船制外之事」と改められている。「但荷船制外之事」とは「ただし商船は除く」という意味であり、これが幕末まで引き継がれた。そうでなければ菱垣廻船や樽廻船が使用した「千石船」など登場する訳がない。そもそも徳川家康が禁止したのは、あくまでも軍船であり、商船を制限する意図など毛頭なかった。
 また、「在外日本人の帰国の禁止」についても、漂流民はその限りではなかったことは、大黒屋光太夫や中濱万次郎(ジョン万次郎)などの例からもわかる。
 
 NHK大河ドラマに『黄金の日々』(1978)というのがあった。秀吉の時代を舞台に、大河ドラマで初めて商人(納屋助左衛門)を主人公として、徹底した時代考証で臨み、平均視聴率は25.9%(歴代3位)という大ヒットとなった。
 このドラマについて、大学時代の指導教官であった脇田修先生が、「あの時代はまさに黄金の日々だったのだ」と言われたことがあった。日本人は富を求めて積極的に海外進出を図り、各地に日本町を形成した。

 一方で最近、「江戸の生活」を見直す本や番組をよく見かける。「江戸時代はエコの知恵に満ちていた」というものが多い。それは鎖国がもたらした結果であった。教科書にも記されているとおり、「幕府が対外関係を統制できたのは、当時の日本の経済が海外との結びつきがなくとも成り立ったため」であったが、悪く言えば、国家そのものが自給自足生活なのだから、3R(リデュース、リユース、リサイクル)に努めざるを得なかっただけとも言える。
 
 この「富みにあふれた黄金の日々」を、今、盛んに持ち上げられている「つつましいエコ生活」に転換させる契機となったのが、3代将軍徳川家光の「武家諸法度」寛永令による大船禁止であった。
 
 鎖国によって、日本は近代化から取り残され、明治になって突然、帝国主義の中に放り込まれて苦労したと言われることもあるが、260年間戦争がないという、世界史上、他に例のない平和な時代を作り上げたことも否定できない。
 また、鎖国とは言っても、完全に国を閉ざしていた訳ではないことは、教科書に「オランダ商館・中国の民間商船や朝鮮国・琉球王国・アイヌ民族以外との交渉を閉ざすことになった」と書かれているとおりである。
 この相手を選んで付き合うことは、他国でも見られたことであり、「鎖国」という言い方をやめて、「海禁政策」という世界史用語をそのまま用いたのでよいのではないかという意見もあり、実は、ぼくも賛成である。

 昨年だったか、外務省の方が、
「最近の若い職員の中には海外勤務を嫌がる者がいる。日本にいるほうが、美味しいものが食べられて、平和で、きれいでいいと言うのだ。外交官の癖に外国に行きたくないと言うなど、水泳選手がプールに入りたくないと言っているようなものだ。」
と言われるのを聞いた。

 鎖国政策には功罪があったが、ただ、縄文時代から丸木舟をつくって海に漕ぎ出すなど、古来、冒険心にあふれ、新しいもの好きであった日本人の性格が内向きになったと思われることだけは、残念に感じる。


2016.3.21

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