エピソード 「誰が守るか『女大学』」

 教科書には江戸時代は「男尊女卑の風も強まり、女子には三従の教えが説かれ、これらの傾向は、武士だけでなく、社会一般にもおよんだ」と記述されている。
 ましてや『三下半』というと、江戸時代の女性は、落ち度もないのに男の勝手で離縁され、泣く泣く家を追い出される姿がイメージされてきた。

 しかし実際の江戸時代の女性の中には、現在の松坂屋百貨店となる松坂屋の10代当主ウタのように、20代前半で当主となって、江戸進出の原動力となるなど、大いに活躍した女性もいた。
 『浮世風呂』(化政文化の項参照。式亭三馬の滑稽本)の序文には「蓋(けだし)世に女教の書許多(あまた)あれど、女大学今川のたぐひ、丸薬の口に苦ければ婦女子も心に味ふこと少なし」とある。つまり『女大学』は苦い薬のようなもので、自分のものとしてる女はいないという認識であった。『浮世風呂』に出てくる女たちも「うちの亭主は夫婦喧嘩になれば、追い出せもしないくせ「出ていけ」というのが口癖でね」とか「亭主にするなら色男より稼ぎ男がいい」とか言いたい放題である。他にも隣の男湯では歌っているからと、張り合うように大声で歌う田舎出身の女など、女性の姿は本当に生き生きと描かれている。
 1717年刊行の『世間娘気質』には、「『今時の女』は律儀であることより、他人からどう見られているかだけを気にかけている 」(これ、本当に江戸時代の話か?)とまで書いてある。

 「貞女二夫にまみえず」という貞操観念から、日露戦争などの戦争未亡人が再婚も出来ず、子どもを抱えて苦労したという話を聞く。しかし、1799年までの大名百家、旗本百家での女性の離婚率は約11%。再婚率も59%である。現在、日本では離婚が増えたと言われているが、離婚率は平成14年でも約2.3%である。これはいかに江戸時代、離婚、再婚に抵抗がなかったかを示している。離婚そのものについても、夫の一方的な恣意ではなく、今と同じ協議離婚がほとんどであった。
 『三下半』がなければ女は再婚出来ないとはよく言われるが、逆に言えばこれを受け取ってもらえなければ、男も再婚出来なかった。元妻が「私は『三下半』を渡されてない」とごねれば、夫には証拠がないので、『三下半』の受け取り証文(離縁状返り一札)を妻に書いてもらう者もあった。反対に、次に自分(夫)に不祥事があったら離婚を認めると、先に『三行半』を書かされた(先渡し離縁状)夫もいる。

 妻から正式に離婚請求が認められる場合として、幕府は法上5つを定めている。(中には夫が妻の承諾なしに、妻の衣類などの持参財産を質に入れた時というものもある。勝手に妻の財産に手をつけたら、正当な離婚理由になるぐらいだから、今でいうDV(ドメスティック・バイオレンス)は当然、理由になったであろう。離婚となれば妻の持参財産(持参金を含む)は返さなくてはならない。)
 そしてその1つが縁切寺へ駆け込んで、3年が経過した時であった。幕府に公認された縁切寺が、東慶寺(鎌倉)と満徳寺(上野/群馬県)である。
 駆け込まれた両寺では、夫・妻双方と関係者を呼んで、事情を聞き、先ずは復縁の説得をかなりする。妻の覚悟が変わらない場合は示談の交渉をさせる。(例えば、「寺滞在の費用は妻の実家負担で、決して安くはない。その分を示談金として夫に出すことで解決しないか」とか)なお夫が受け入れず、離婚を拒否する場合は、夫に対して寺法を強く諭す。それでも夫がガンとして『三下半』を書くことを拒否したらどうなるか?
 最後の手段です。寺社奉行が寺法を犯したとして、夫を牢に入れる。これで屈伏しなかった夫はいない。(ちなみに『三行半』にも作法があって、離婚理由に女の不利になることは書かないのが良いとされた。「我等勝手に付(一身上の都合)」「気不合候に付(性格の不一致)」などと書かれているのはそのためである。)

 もちろん、「江戸時代の女性の地位は高かった」と、手放しで言えない部分もある。例えば先述の松坂屋ウタについても、松坂屋自身にさえ、ほとんど資料が残されていない。地方の企業に過ぎなかった会社が、東京へのメジャー進出を果たして成功したとあっては、普通なら社史を彩る英雄のはずだ。その記録がほとんどないというのは、やはり女性であったためであろうか。

 しかし、江戸時代の女性が、みんな虐げられていたのではなかったことは確かである。

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