『近世編1 江戸幕府の成立』

(P.67〜70)

1 徳川家康による統一過程
 大坂の役の「冬が先で夏が後」その結果、戦国時代が終わったことを「元和偃武」という。以上。

2 江戸幕府の仕組み(P.67〜68)
(1) 幕府の職制
 
強力な領主権を持つ将軍と大名が土地と人民を統治する支配体制を幕藩体制という。
 江戸幕府の職制は重要。空欄補充ですべて覚える。3代家光から4代家綱の代にかけて整備された。
 家光が「庄屋仕立て」とよんだとおり、実は複雑ではない。第1列=譜代大名」格と
 「
第2列=旗本」クラスをしっかりと押さえる。ポイントは以下の通り。
@監察機構:大名監察老中大目付旗本・御家人若年寄目付のライン。
  大目付の下に目付がいるのではない
。朝廷監察は当然京都所司代
A三奉行(寺社・町・勘定)中、最高格は寺社奉行(これだけ第1列)。
B勘定奉行は、幕府財政の他、幕領(天領)の訴訟に携わっている。
  勘定奉行の下に、郡代(関東・飛騨・美濃など要地)・代官
がいる。
C城代とは将軍に代わって要地の城を預かる。具体的には二条(京都)・大坂・駿府
  そして伏見におかれた。
D遠国奉行は、幕府の要地におかれた。江戸の三奉行に対して言われる。
  具体的には長崎・佐渡・日光など。城代がいる大坂や京都におかれた町奉行も
  遠国奉行の1つである。
E老中・三奉行などからなる最高会議を評定所という。(鎌倉時代の評定衆との正誤問題あり。)
F複数制・月番制である。町奉行だけでなく、老中以下も1カ月交替だった。






<なぜ大目付は老中配下で、目付は若年寄配下なのか>
 教科書には、「老中を補佐し旗本を監督する若年寄」(山川『詳説日本史』)、「老中を補佐する若年寄は3〜5名で旗本・御家人を統制した。(略)大目付と目付は、それぞれ老中、若年寄の支配を受け、大目付は大名、目付は旗本・御家人を監察する」(実教『日本史B 』)と記されている。
 若年寄は老中の補佐役であることは分かる。では、なぜ老中の補佐役が旗本・御家人を統制し、大名を監察する大目付は老中配下なのか。
 若年寄は、幕府の家政機関だからである。だから旗本・御家人という幕府内部を統制し、管理した。その配下に旗本・御家人を監察する目付が設けられた。
 老中は大名・朝廷・寺社など幕府外部の勢力を統制し、国政を担った。大名は幕府外部の勢力であり、それを監察する大目付は老中の配下であった。


大名を監察する大目付が老中の下、旗本・御家人の監察の目付が若年寄の下であるのは、老中と若年寄の職掌の本質的な違いが理解できれば納得できる。

(2)経済基盤
@鎌倉幕府の荘園が関東御領→室町幕府の直轄領が御料所→豊臣政権が蔵入地→そして江戸幕府が幕領(天領)である。
A江戸幕府は主要鉱山を直轄できた→貨幣を発行できた。 

3 大名
 大名とは何か(1万石以上で将軍と主従関係あり)。親藩(血縁)・譜代(関が原以前)・外様(関が原以後)の区別をしっかり。ポイントは、「外様は大きくて辺境に配置。幕政に参加できない」。外様最大は加賀藩。譜代最大は、幕末の井伊直弼がでた彦根藩。これは関西の私大で出題された。 
 大名は当初有力な家臣に対して領地を与える地方知行制(じかたちぎょうせい)を取っていたが、後には蔵米を支給する俸禄制度となった。大名には軍役・参勤交代のほか、城郭修築や河川工事などを行う大名御手伝普請が課せられ、大きな負担となった。
 なお、江戸時代初期の大名御手伝普請が藩に与えた影響については、入試問題解説「2011年度 東京大学第3問 -江戸初期の城普請とその影響 - 」を参照してほしい。

 かつては御三家(紀伊・水戸・尾張)と御三卿(8代吉宗の子孫。田安・一橋・清水)と言っていたが、最近では尊称を除けて「三家」と言うこともあるので、惑わされないように。

4 幕府直参
 旗本・御家人のことだが、大名と旗本・御家人の違い(1万石以上か未満か。「御目見得」以上か、以下か)が正誤問題で出る時がある。(エピソード「イカとタコ」へ

(2002.1.22改訂)
(2010.3.3改訂)
(2013.9.14 江戸幕府の職制図等を追加)

(2023.4.2 <なぜ大目付は老中配下で、目付は若年寄配下なのか>を加筆)

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