(P.71〜72)
1 江戸時代初期の外交
最初に大きな流れを確認しておきたい。
徳川家康は海外交易に熱心な人であり、江戸幕府は当初は、貿易に積極的だった。朝鮮や琉球王国を介して明との国交回復を図ったし(明から拒否されたが)、スペインとの貿易にも意欲的にチャレンジした。だからこそ田中勝介をノビスパン(メキシコ)へ派遣したのである。
しかし、「キリスト教の禁止」と「幕府による貿易の独占」を目的に、いわゆる鎖国政策に転換していくことになる。教科書には、「その理由の第1は、キリスト教の禁教政策にある。理由の第2は、貿易に関係している西国の大名が富強になることを恐れて、貿易を統制下におこうとした」(山川『詳説日本史B』)と明記されている。
(※ただし、これについては異論もある→「発展 長崎会所の成立と2016年度東大第3問」へ)
とは言え、鎖国とは国を閉ざして外国と付き合わないことではない。幕府による私貿易の禁止であり、明の海禁政策と同じである。現に鎖国下でも長崎でオランダ・中国と、対馬を介して朝鮮と、薩摩を介して琉球と、そして蝦夷地と交易している。4つの扉が開かれていたことを忘れてはならない。
出島のオランダ商館のドイツ人医師ケンペルが著した『日本誌』の内容を、オランダ通詞の志筑忠雄が『鎖国論』と和訳したことから、江戸幕府は、国を閉ざす「鎖国」政策をとっていたという、誤った認識が広まった。(エピソード「名訳? 迷訳?『鎖国論』」へ)
実際には、鎖国どころか、江戸時代を通して、東アジア諸国と密接につながっており、外交政策は国内政治経済にとっても、きわめて重要な役割を果たしていた。
(1)朱印船貿易
朱印船とは朱印状という海外渡航許可証を持った船である。家康が制度化した。貿易品のポイントは銀を売って、生糸を買っていた。日本は生糸の輸出国であったというイメージがあるが、これは幕末から戦前までのこと。確かに、昭和初期の日本のアメリカ向け輸出の中心は、生糸でした(P.126)。しかし、江戸初期はひたすら中国産生糸(白糸という)を買っていた。これが72頁の糸割符制度へとつながっていく。朱印船貿易商人は「どこの誰か」をセットで覚える(古代の遺跡感覚)。メジャー所は、「京都の角倉了以」と「長崎の末次平蔵」かな。
日本町→アユタヤ(地図もチェック)→山田長政=リゴールの太守で丸暗記。
(2)中国関係
鎖国時代も中国人は、出島に集められたのではない→唐人屋敷(1688年に清国人の居留区を、長崎郊外の区画に限定した)。明が海禁政策といういわゆる鎖国政策をとっていたため、東シナ海上で通商をする出会貿易を行っていたことは、私大で時々みる。
明末・清初の動乱(明清交替の動乱)がおさまった後、日中貿易は年々拡大していった。幕府は輸入の増加による銀の流出を抑えるため、輸入制限を行うとともに5代綱吉の代に唐人屋敷を設けたのである。
この、長崎におけるオランダ・中国からの輸入制限は、新井白石の海舶互市新例(長崎新令)につながっていく(P.74)。
(3)朝鮮と琉球からの使節
「朝鮮→通信使」。「琉球王国→慶賀使(将軍の交替ごと)と謝恩使(琉球王の交替ごと)」、これは3点セット。正誤問題でもでる。対朝鮮貿易を対馬の宗氏が握っていた(1609年己酉約条)ことは、室町時代と同じ。
(4)琉球王国
くどいが王府は首里である。(那覇は外港)さて、琉球が日本に使節を送ってきた背景には、1609年の島津家久の出兵がある。島津は首里を攻略して、琉球王尚寧を捕らえ、琉球は与論島以北の奄美を割譲した。これ以降、琉球は従来通り中国の冊封を受ける一方で、日本にも属するという日中両属の形となり、さらには「薩摩藩は琉球産の黒砂糖を上納させたほか、琉球王国と明(のちに清)との朝貢貿易によって得た中国の産物もおくらせた」(山川出版社『詳説日本史』)という状態となった。
かつて東京大学の問題で、幕末フランスが通商を求めてフランスへ来たことを題材として、このとき琉球がフランスに知られたくなかった事実は何かと問い、日本への服属を答えさせたことがある。中国は海禁政策をとっており、交易できた船は朝貢船だけであった。朝貢は独立国からしか認められず、中国に日本への服属が知れることは、朝貢の資格を失うことであった。
幕府は、琉球が独立国をして振る舞うことを認めていたが、それには大きく2つの意図があった。
一つは、海禁政策をとっている中国との貿易を行わせ、得られた産物を納めさせること。
二つめは、琉球王国が派遣する「慶賀使」や「謝恩使」は、独立国から派遣されるからこそ、将軍の権威付けになったためである。そのため、慶賀使や謝恩使は、いかにも異民族が入貢するよう演出された。
ただし、日本・中国・フランスの史料を付き合わせてみると、実際には、みんな琉球王国が日本に服属していることに気づいていいながら、知らないふりをしていたようである。
(5)蝦夷地
コシャマインの乱(1457=室町時代)とシャクシャインの乱(1669)は、名前を覚えたら「アイウエオ」順(コがシより先)。
意外によく出題される松前藩の商場知行制と場所請負制の違いについて。
米の取れない松前藩は、アイヌとの交易権を家臣に与えることで主従関係を結んでいた。アイヌとの交易は、アイヌ居住地の近くに設けられた商場(場所)で行われた。
この商場での交易権を上級家臣に知行として与え、そこから得られる利益を取得させたのが商場知行制である。もちろん松前氏は、収益の多い良い商場を複数知行していた。交易船は、年に1回、知行主から商場へ派遣された。
もともとアイヌは、蝦夷地の産物だけでなく、大陸から入手したものなどを、東北地方の商人などとも自由に交易していた。それが、交易は商場に限定され、年に1回の交易船との取引に限定されたことで、アイヌは受け身の状態となり、圧倒的に和人が有利な交易となった。
この商場知行制は、シャクシャインの乱を境に、場所請負制に変わっていく。これは、商場(場所)での交易を本州の特定の商人に請け負わせ、税(運上金)を納めさせるものである。これにより交易船も商人が派遣するようになった。
(6)紅毛人関係(イギリス・オランダ人)
イギリス・オランダ人は南蛮人ではない。リーフデ号に乗っていて家康の外交顧問になった二人は、どっちがイギリス人(ウィリアム=アダムズ→三浦按針)でどっちがオランダ人(ヤン=ヨーステン→耶揚子)か?リーフデ号がオランダの船であったことを考えれば、水先案内人より格上の航海士の方がオランダ人であったことはわかるでしょう。
<南蛮人関係(スペイン・ポルトガル)>
(7)スペイン(イスパニア)。
貿易の拠点がフィリピンのマニラであることは、織豊政権での南蛮貿易で習ったとおり。ノビスパン(現メキシコ)へ行った田中勝介が家康の家臣で、慶長の遣欧使節とも言われ、ヨーロッパへ行った支倉常長が伊達政宗の家臣。
(8)ポルトガル
対欧州では一番重要。ポルトガルは中国産生糸(白糸)を持ち込んで中間マージンをとってぼろ儲けしていた。これに打撃を加えたのが「糸割符制度」。つまり糸割符制度はポルトガルに打撃。五ヶ所商人(長崎・堺・京都・大坂・江戸)は絶対。始めは前の3カ所(長崎・堺・京都)だったことも知っておいて欲しい。正誤問題がでたら、ダミーはまず博多である。(博多は五カ所商人には含まれない!)
(ちなみにノートには、有馬晴信が長崎湾内で沈めたマードレ・デ・デウス号事件も記してあるが、ポルトガルに経済的打撃を与えたのが糸割符制度なら、軍事的打撃を与えたのが、この事件といえる。しかし、超難問と言ってよい。)
(9)鎖国の形成
出題頻度が高い鎖国。「いろいろ(1616年)な船が平戸・長崎=中国船以外の外国船の来航を、平戸と長崎に制限」「1624年にスペイン船の来航禁止」と「鎖国=3・5・9」(ちなみにスペイン船の来航が禁止された1624年の前年に、イギリスが平戸の商館を閉鎖して退去するが、これは競争に敗れて勝手にかえってのであって、来航を禁止されたのではないよ。)
1633・5・9年の内容は、最重要!史料の並び替えでもよく出題される。
つまり「1633年=奉書船以外の海外渡航禁止」→「1635年=日本人の海外渡航と帰国の禁止」→「1639年=ポルトガル船の来航禁止」これに「1641年=オランダ商館を長崎の出島に移す」でいわゆる鎖国の完成である。(「鎖国はサコク(3・5・9)」で「ほー、日本じゃポルノは禁止(奉→日本→ポル)」で覚える。)
「奉書船とは何か」は正確に。正誤問題でも出る。「朱印状と老中が発行する奉書の両方持っている船」です。
「島原の乱(島原・天草一揆)=天草四郎時貞(1637)→絵踏の実施」はいくつかの教科書では、宗教統制ででているけど、ここでまとめておきました。鎮圧した老中松平信綱、通称「知恵伊豆」(伊豆守だった)も私大では出ることがある。
かつて、「島原の乱の時、幕府が、キリシタンたちが立てこもる原城址を砲撃してもらったオランダ船の名前は何か。」という出題をした大学があったが、天下の悪問と言うより、受験日本史上の爆笑問題といいたい。(ちなみに、このオランダ船の名はライプ号(デ・ライプ号)といいます。絶対覚えなくて良い。)
閑話休題。
鎖国関係では、「オランダ風説書」もよくでるね。鎖国の完成後、オランダ船が出島に入港するたびに、オランダ商館長(カピタン)に幕府へ提出させたレポート。幕末に幕府はこれによってペリーの来航を事前に知っていました。ちなみに、「鎖国完成後、開国まで日本に来たヨーロッパ人は、オランダ人だけであった。」という正誤問題があったが、答は×。ケンペル(72頁の上部欄外)も、シーボルト(90,93頁)もドイツ人。密入国した宣教師シドッチはイタリア人(74頁)です。
高山右近がマニラ方面へ追放されたことも出る。元和の大殉教(1622)はやや難問。
(2004.4.19追記)
(2006.8.14追記)
(2010.3.3改訂)
(2012.2.28追記)
(2014.1.16内容を整理)
(2017.1.10中国関係を整理)
(2020.2.9 蝦夷地の項目に商場知行制と場所請負制の図を加え、解説に加筆しました)