(P.31〜34)
いつから中世かという質問があります。大体、この院政期からというのが、一般的でしょう。(発展「中世のとらえ方」へ)
1 院政の開始
(1)後三条天皇の時代
@摂関在位50年に及んだ藤原頼通も、入内させた娘に皇子が生まれず、ついにgive
up。1068年、摂関家を外戚としない後三条天皇が即位する。(発展『藤原氏って何で衰えたんですか?』ー東大入試問題に学ぶ 2ー(1983年第1問)へ)
A人材登用=大江匡房(延久の荘園整理令の起草者で記録荘園券契所(記録所)の職員となる)などの受領層
B延久の荘園整理令(1069)
即位の翌年に出された延久の荘園整理令は、2つの史料が大切。
○1つは慈円の「愚管抄」。「宇治殿(藤原頼通)の抵抗」を記したもので、「延久ノ記録所トテハジメテ・・・」で始まる。
○もう1つは「百錬抄」の具体的に「記録荘園券契所」と出てくる史料。(史料では「記録庄園券契所」となっているが、「荘園」で可)。この史料には、整理令の具体的な内容がはっきりと記されている。すなわち、
(1)寛徳二年(1045)以降の新立荘園は全て停止。
(2)1045年以前のものであっても)立券不分明なもの、つまり立券荘号の書類がそろってないものは全て停止。
(3)この2つの条件を満たしていても、国司が妨げになると言えばダメ
という厳しいものだった。
今までの荘園整理は、国司に委ねられていたから、摂関家にはなかなか及ばず、また任期切れが近づくと、国司免判を乱発して財をなす者もいて、実効があがらなかった。
この荘園整理令では、記録荘園券契所(記録所)は、中央におかれ、整理令の起草者でもあった、天皇の側近大江匡房が職員としてことにあたった。
慈円の『愚管抄』に「藤原頼通が抵抗したので、無駄に終わった」と書いてあるので、効果がなかったと思われがちだが、これは大間違い。確かに、摂関50年という功績を考慮して、藤原頼通の荘園は大目に見たが、それ以外の摂関家領荘園は、ガンガンに整理した。石清水八幡宮でさえ、34カ所中13カ所停止だから、3分の1以上が没収された。大きな効果をあげたと言ってよい。
また、この徹底した荘園整理によって荘園と公領とが明確となり、12世紀の鳥羽院政期に荘園公領制が確立することになる。
C後三条天皇で、「度量衡の統一」と問われたら、脊髄反射で、「延久の宣旨枡」と答える。
(2)白河上皇の時代
後三条が在位三年ほどで、死去したあと、白河上皇が、院政を開始する。譲位された堀河天皇も意外とよくでる。ここから白河・鳥羽・後白河の3上皇、約100年間を院政期という。「白河院政が最も長い」もでる。
院政は当初、自分の子孫に皇位を継承させることを目的としてはじめられたが、上皇は天皇家の家長として、律令国家のトップである天皇を押さえ込むことによって、国家そのものを掌握した。「治天の君」(実際に世を治めている者)とよばれ、絶大な権力を持った。白河上皇が「天下三不如意」(源平盛衰記)は、「鴨川の水、双六の賽、山法師(延暦寺の僧兵)」と言ったことは有名である。
院政期全体のキーワードは、
@院政開始は1086年
「受領層が、院近臣を形成」し、院庁が出す命令=院庁下文、上皇の命令=院宣。
A院の警備のために北面の武士設置(白河上皇)
B「3上皇ともに出家して法皇となり、法勝寺(白河法皇)に代表される六勝寺を造営」したこと。そして、「浄土と見立てた熊野詣や高野詣を繰り返した」ことがある。
2 荘園公領制
12世紀、鳥羽院政のころに荘園公領制といわれる土地体系が確立した。
律令制のもとでの行政区画は、国>郡>里(郷)であった。しかし10世紀末から開発領主が盛んに耕地を開発すると、政府はこの土地を、郡・郷・保などの新たな行政区画とし、開発領主をそれらの郡司・保司などに任じて、公領に編入した。新たに開発された耕地が荘園になることは、国家の収入が減ることを意味するため、公領を増やすための現実的な手段を講じたのである。ここで勘違いなきように。荘園が増えたとはいえ、一部の例外を除いて、一国の中では、荘園よりも公領のほうが多かったのである。でなければ、成功までして受領になる意味がない。
荘園においても、公領においても実際の耕作は、名(名田)を単位に田堵が請け負ったが、田堵は名に対する権利を強め、名主(みょうしゅ)へと成長した。
このように国の中は、国>郡>里(郷)という座布団型(?)ではなく、郡:郷:保という並列型に再編成された公領と荘園とが併存する形となった。これを荘園公領制という。
名主が負担した、年貢・公事・夫役と、律令制度のもとでの租・庸・調・雑徭・出挙や、平安時代中期以降、受領が田堵に課した官物・臨時雑役の違いは以下の図のとおりである。
<知行国制度> これについては三省堂の教科書の記述が最も分かりやすいと思う。 「荘園公領制のもとでは、国衙領の収益は国司のものとして確保されていたから、この収益を特定の公卿や寺院・神社にあたえる知行国制というあらたな制度がつくられた。これをえて知行国主となった上皇・貴族・大寺院・大神社は、子弟や近臣を国司(守)に任命して国内支配を行なわせ、国衙領からの収入を得ようとした。」 つまり、知行国主は、国司の任免権を持っており、その国司を通じて、支配権を与えられた国(知行国)の公領から上がる収益を手に入れたことを理解しておきたい。 |
A白河は親父の後三条に習って、荘園整理に積極的だったが、鳥羽・後白河は消極的だった、と言うより、皇室領荘園の集積に邁進した。延久の荘園整理令で摂関家・大寺社の、本所としての機能が揺らぐ中、天皇家には寄進が集中し、巨大な荘園領主となった。例えば、鳥羽上皇が、可愛がっていた娘に与えた八条(女)院領だけで、摂関家領をしのぐほどの有り様であった。受験では後白河法皇の長講堂領との正誤問題に注意。
(2) 南都北嶺
僧兵の強訴の組み合わせ(南都=興福寺+春日神社の神木 ⇔ 北嶺=延暦寺+日吉神社の神輿)は正確に覚えなければ意味がない。
では彼らが強訴した(訴えた)主な内容は何か。この時代の特徴がつかめていれば分かる。荘園の境界争いである。
4 平氏の台頭
(1)「平正盛=白河上皇の北面の武士。源義親の乱鎮圧(やや難)」
(2)「平忠盛=鳥羽上皇の院庁別当。瀬戸内海の海賊平定で功名(実は「やらせ」との説あり)」
(3)保元の乱、平治の乱は、関係者の組み合わせをしっかり覚えたい。最低限度は
@「保元の乱(1156)=○後白河天皇⇔×崇徳上皇」+〇平清盛・源義朝・藤原忠通⇔×源為義・平忠正・藤原頼長
A「平治の乱(1159)=○平清盛⇔×源義朝」=院近臣であった藤原通憲(信西)と藤原信頼の対立。
藤原信頼と源義朝が挙兵し、信西自殺。清盛が鎮圧→平氏政権へ大きく前進
である。
以前は、平治の乱は清盛と義朝の対立が主原因だと言われていたが、最近では院近臣の対立に武士は巻き込まれたと考えられるようになっている。
なお、慈円が「愚管抄」で「ムサノ世ニナリニケル」(武者の世になった)と評したのは、保元の乱のことである。
5 平氏政権
基本を簡潔に。
(1)平清盛は1167年に武士初の太政大臣。「平家物語」で「・・・皆人非人・・・」と言った奴は、平時忠。
(2)「娘徳子は高倉天皇の中宮であって、安徳天皇の中宮ではない!安徳天皇は徳子の子で、清盛が外戚となる。」
(3)日宋貿易は「現神戸港=大輪田泊修築」「瀬戸内海航路の安全を図り、宋商人を畿内への招来に努力」
輸入品の「太平御覧」もたまに出る。正誤問題では、「清盛は大輪田泊を修築するなどしたが、日宋貿易を始めたのは忠盛。」「日宋貿易で、中国の貿易船は畿内にまで来ている。」(ともに○)
(4)「平家打倒計画=鹿ケ谷の陰謀」で鬼界島に流されたのは俊寛。
なお、平氏政権は「外戚政策と荘園・知行国を経済基盤としているところは、貴族的だが、畿内・西国の武士を家人として組織し、荘園へ地頭として派遣するなど、鎌倉幕府の先駆ともいえる側面ももっている。」(地頭はもともと平氏がおいた荘官の名称である。)
6 平安末期(院政期)の文化 (P.33〜34)
文化の大きな特徴を2つ。聖とよばれるフリーランスの坊主(受験では「民間の布教者」)によって浄土教が地方へ広められたことなどから、「文化が地方へ普及した」ことと「貴族が庶民の文化に強い関心を持っていた」ことである。イメージとしたは「下(地方・庶民)から上(中央・貴族)」と「上から下」への両方向のベクトルがあったことになる。
(1)文化の地方普及の例
まず「地方につくられた阿弥陀堂建築」は、「中尊寺金色堂(平泉)」は絶対。最近は、「豊後→富貴寺大堂」「福島→白水阿弥陀堂」も地名とのつながりで出る。
この他の建築物として「三仏寺投入堂(鳥取)」は、一見の価値があるが、あまり出題はされない。(
エピソード「日本第一の建築 - 三仏寺投入堂 -」へ)
(2)貴族が庶民文化に関心を持っていた例
「流行歌であった今様を後白河法皇が編集した『梁塵秘抄』」は絶対。( エピソード「実は名君? 歌う専制君主 - 後白河法皇 -」へ)
「田植神事であった田楽」が貴族に流行したこと、「四天王寺の『扇面古写経』の下絵に大和絵で、庶民の姿が描かれている」ことなどが、よく出題される。
(3)セットネタ
@軍記物語=最初は『将門記』 ⇔ 前九年の役は『陸奥話記』
A歴史物語=道長に好意的は『栄華物語』 ⇔ 道長に批判的は『大鏡』
B装飾経=四天王寺→扇面古写経 ⇔ と 厳島神社→平家納経
なお、『今昔物語集』は、平安末期の説話集だとわかればよい。
(4)絵巻物
大物である。「信・源・伴・鳥」の4つは特徴まで聞かれる。そして「この4つ以外の絵巻物が出題されたら、全て鎌倉文化だと思ってよい。」つまり、「この4つが平安末期の文化だと正確に覚えなければならない。」
絵を見て分からなければならないが、マーク式の受験のポイントだけ、簡潔に。
@庶民の姿→「信貴山縁起絵巻」(僧の命蓮の奇跡。飛倉の場面がよく出る)と「伴大納言絵巻」
A吹抜屋台、引目鉤鼻→「源氏物語絵巻」
B応天門の変→「伴大納言絵巻」
C鳥羽僧正、擬人的、風刺的、詞書がない→「鳥獣戯画」
(2005.10.26更新)
(2007.8.16更新)
(2011.7.30 誤植を訂正)
(2011.11.22 知行国制の解説を追記)
(2013.1.1更新)
(2017.12.02 平治の乱を修正)
(2020.2.8 地方制度の変化と租税体系の図を追加)
(2024.9.13 地方制度の変化と租税体系の図を修正)