発展 『中世のとらえ方』

A「ぼく、武士!」
B「ぼく、貴族!」
C「ぼく、お坊さん!」
A.B.C「おしくら饅頭、押されて泣くな、わーしょい、わーしょい、わーしょい。
権門体制!」 

 これは研究室旅行の時の出し物の一つで、故黒田俊雄先生にも受けたネタである。譬えとしては分かりやすいと思う。

 権門とは「権門勢家」の略である。山川の『日本史用語集』では「平安初期に墾田地を不法占有する王臣家や平安末期の寄進荘園を受けた院・貴族・寺社層を指す。」とある。

 中世はこの武家・公家・寺社勢力の3つが、「おしくら饅頭」をしているようなものだというのが、『権門体制論』である。
 極めて簡単に言えば、源頼朝を代表とする武家(というより、鎌倉当初は武家と言えるのは頼朝だけだが)は、天皇家を中心とする公家に、征夷大将軍として認められなければ幕府を開けない。延暦寺や興福寺などの寺社勢力も同様である。興福寺が強訴して要求が通るのは、藤原氏の氏寺だからであり、「藤原氏を除名する」(放氏の処分)ことを摂政・関白といえども拒否出来ないから恐れられているのである。(事実、鎌倉・室町時代を通して「放氏」は23回も行われた。)しかし、これとて藤原摂関家そのものに意味がなければ話にならない。しかし、公家とて伝統的な宗教的権威を無視することは出来ない。むしろ伝統的権威によって自分たちの地位は保たれている。また国家維持のためには、寺社を抑えるためにも武家の力を必要としていた。
 つまり各々が、少しでも相手を押し込んで自分がいい思いをしたい一方で、相手の存在がなくては自分も成り立たないという、まるで「おしくら饅頭」のような状態であった。このように、3つの勢力が相互補完的な構造をしていたとする説が、『権門体制論』である。そして中心人物が黒田俊雄先生であった。

 しかし、おそらく君たちは中学校まで次のように習ってきたのではないか。
 壬申の乱の結果、天皇権威が高まり、公地公民制のもと天皇が政治をとるようになった。やがて律令体制が変質し公領・荘園ともに名を単位に税を徴収するようになると、政治の実権は受領の任免権を握る藤原摂関家に移った。鎌倉時代以降は武士が政治を担うようになった。(そして高校では、「室町時代には荘園制を大きく崩して守護が一円支配をすすめる。これを守護領国制という。」と習う。)
 つまり、土地支配関係の変化とともに政権担当者が移り変わっていった。(もちろん、これも極めて簡単に説明したものであるが)これを『領主制論』という。中心は永原慶二先生(一橋大学)であった。

 永原先生は、長身でロマンスグレーで見るからにダンディであった。対する黒田俊雄先生は達磨大師の風貌であり、ハンサムさでは負けても、迫力では負けてなかった。(ちなみに「黒田先生はなぜアゴヒゲを生やしているのでしょう。答。ヒゲがないと、顔の上下が分からないから。」と言った無礼者の先輩がいた。)

 権門体制論から言うと、「天皇を藤原氏などの貴族と別扱いで考えるから分かりにくいのであって、天皇家はバリバリの公家であり、荘園制になっても天皇家はしっかり対応している。その証拠に平安末期の皇室領荘園は、摂関家など問題にならなかったではないか。しかも室町時代に入ってからも荘園制は存在している。」となる。

 しかし「それでは足利義満をどう説明するのか。彼は天皇の義理の父親となることで公家のトップに立ち、寺社勢力も抑えこみ、名実ともに頂点に立った。事実、明からも正式に『日本国王』と認められているではないか。」と言える。

 そこで折衷案も出ている。「鎌倉時代当初は権門体制であったが、次第に権力構造が変化していき、足利義満ごろから領主制に変わっていった」というものだ。
 これは凄く分かりやすい。しかし問題点も多く、一つ思いつくだけでも「信長に焼き討ちされるまで、比叡山が強大な権力を持っていたことをどう説明するのか」となる。

 「権門体制論」「領主制論」「折衷案」ともに今、様々な批判や再構築が試みられている。とにかく、日本史はまだまだ分からないことばかりであり、だからこそおもしろい。

くれぐれも言っておきますが、ここで説明した各論の要旨は、ぼくが大学時代に学んだことを、高校生が習う知識の範囲内で、分かりやすいようにまとめたものです。将来日本史を専攻しようとする者は、一から学んで下さい。

2003.1.26

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