エピソード 『女性史研究のパイオニアー高群逸枝と四国遍路ー』

 日本の女性史研究といえば、真っ先に思い浮かぶのが高群逸枝(たかむれいつえ)である。『母系制の研究』、『招婿婚の研究』などが著名であり、『20世紀の歴史家たち』(刀水書房』)に久米邦武や津田左右吉らと並んで、女性でただ一人、取り上げられている。教科書中の

「当時の貴族社会では、結婚した男子は妻の家で生活する(招婿婚)のがふつうで、邸宅などの財産は娘にゆずられることが多かった。藤原道長は左大臣源雅信の女(むすめ)と結婚して雅信の邸宅土御門邸で生活し、ここで長女彰子が生まれた。のちに土御門邸は彰子にゆずられた。彰子が上東門院(上東門は土御門の別称)と称されたのは邸宅名に由来する。」(山川出版社『詳説日本史』)

という平安貴族の生活について述べた部分は、彼女の研究の成果と言える。

 ところで熊本生まれの彼女は、意外なところで四国と関わりがある。1918(大正7)年、24歳の時、約半年かけて四国遍路を行っていることだ。あの米騒動がおこる2カ月前のことであった。しかもその原因は恋愛問題に悩んだ結果である。
 彼女には橋本憲三という心に誓った恋人(のち結婚して夫)がいたが、別の青年から、日に三度
血判が届くという熱烈な求愛を受けていた。彼女は同情から彼にはっきりと「NO」と言うことができず、そのことが橋本憲三との関係を悪化させる。愛する憲三には冷たくされ、血判青年からは逃げきれず、憲三に会う機会を増やしたいがために、小学校教諭の職を辞して転居したため収入もなくなり、一切に追い詰められた彼女は四国遍路に出ることを決意する。

 彼女はその紀行文を『娘巡礼記』として「九州日日新聞」紙上で連載した。当時、若い女性が一人で遍路に出るということは、よほどの事情であった。その多くはハンセン病に冒され、故郷に住めなくなったことであった。彼女も「よか所の娘でも、病気ばかりは仕方がない。前世の罰だろう」と言われたこともあった(エピソード「鎌倉仏教とハンセン病」へ)。あるいは男が女性を装って書いているのだろうと、確認に彼女を見に来た人もいた。彼女自身「若い女の一人旅 ー それはこんなにも怪しまれるものなのか」と記している。

 彼女は15〜6歳に見えたらしい。九州を出て四国へ渡る前に、彼女を観音様の化身と思い込み、以後主従の礼を持って彼女に仕えることになる伊藤宮治老人に出会う。(実際伊藤老人は、四国上陸後も、荷物は一人で背負い、炊事にも手を出させず、宿に着けばまず塩で彼女の足を揉むほど誠実に彼女の面倒をみた。)また、彼女の杖に触れると病気が治ると信じて集まってきた人たちもいた。

 旅は「此宿こそ如何にも虱が湧いてゐそうな不快な宿である。寧ろ海辺の野宿がいい」というような有様であった。そんな彼女の巡礼記(本当は西国三十三カ所が「巡礼」、四国八十八カ所巡りは「遍路」であるが、ここはタイトルのまま巡礼とする)を、橋本憲三は勤務先の宿直室で切り抜きしており、遍路後、彼女と正式に婚約することになる。(それを知って、『巡礼記』を読んで高群ファンになった神戸の青年が、自殺を図るという出来事もあった)

 『娘巡礼記』を読むと、涙もろく、でもちょっと生意気な若い日の高群逸枝の姿が生き生きと伝わってくる。「カワイイお遍路さん」だけでなく、「観音様の化身」とまで言われたのは、彼女のルックスの美しさ(美人の譬えで「観音様のよう」という言葉を聞くが、高群はさぞ綺麗だったんだろうなぁ。)だけでなく、その立ち居振る舞いが、何かカリスマ的な魅力を感じさせたのではないだろうか。

    それにしても、平塚明といい、高群逸枝といい、明治・大正期の女性運動のリーダーたちは、熱烈な恋愛経験があったんだね。与謝野晶子はもちろんだけど・・・。

エピソード「平塚明と雑誌『青鞜』と『若いツバメ』」へ
エピソード「『みだれ髪』と俵万智」へ
 

(『娘巡礼記』は、残念ながら絶版になっています。図書館等で読んで下さい。)

(2002.11)

なんと!! 『娘巡礼記』が復刻されました。岩波文庫から、2004年5月刊行です。さすが岩波!!
この情報も、ぼくのHPをご覧の方からメールで教えていただきました。ありがたいなぁ・・・。

(2004.7.5追記)

本編へ戻る
エピソード目次へ戻る
トップページへ戻る