『近世編4 文治主義の展開』

 第7章 幕藩体制の展開

【1】 文治政治の展開  (P.73〜74)

 家光までの3代は、幕府権力の集中と安定をはかるため、武家諸法度をたてに反抗的な大名に改易・減封などの重い処分でのぞむなど、大名弾圧を軸とした武断政治の傾向を強くしていた。この代表例が武家諸法度違反(『近世編2』で記した『武家諸法度元和令では、居城の無断での修補を禁じ』に違反したとされた)で改易された広島福島正則である。
 それに対して、4代家綱からは法律や制度を整備し、社会秩序を保ちつつ幕府の権威を高める文治政治への転換を進めた。
 「武断政治」と「文治政治」を何かと問われたら、「武断政治=武力で圧伏する政治」「文治政治=儒教的徳治主義
(学問による理屈)で治める政治」と考えてよい。

 個々の内容は、これから理解していくとして、4代家綱・5代綱吉の2代をかけて戦国時代の風潮を一掃したのだというイメージを持ちたい(特に論述がある人は絶対)
 江戸時代初期には殉死が美化され、追腹(主君が死んだら後追い自殺をすること)がもてはやされて最盛期を迎え、その数を競い合う風潮、いわゆる「かぶき者的風潮」があった。
 この一掃は家綱の時代の政治的課題であり、「末期養子の禁の緩和」と合わせて出された「かぶき者の取り締まり強化(1651)」→「殉死の禁止(1663)」→(旗本奴水野成之(十郎左衛門)の切腹(1664))→「服忌令(1684)」・「生類憐みの令(1685)」とつながっていき、家綱・綱吉の2代をかけて、戦国時代以来の武力によって相手を殺傷することで上昇をはかる価値観をかぶき者ともども完全に否定した。(発展「歴史の本質をとらえる=文治政治の展開」へ

1 4代徳川家綱
 授業では補佐役の会津藩主保科正之に燃えるところである。危機管理のリーダーとしてこうありたい。
 キーワードごとにまとめると次のようになる。
(1)「文治政治への転換の契機慶安事件(由井正雪の乱)」
 由井正雪牢人の不満を利用して幕府を倒そうとしたこの事件は、家綱就任直後におこった。
(2)「牢人の発生を防止末期養子の禁の緩和
 武断政治
の影響で、大名が改易されると、その家臣たちは失業して、いわゆる牢人となる。この増加が社会不安をもたらすことを防ぐため、改易を減少ようとした。
(3)「戦国時代の気風を一掃したいかぶき者の取り締まり強化殉死の禁止証人(人質)制の廃止
 ここで証人制の廃止というのは、江戸城に大名の母や妹を人質にとるのをやめたのであって、参勤交代の大名の妻子は江戸在住はずっと続いている。この二つを「寛文の二大美事」というが出来なくてよい。
  
(4)「明暦の大火」(1657)エピソード「怪談? 振袖火事」へ)も家綱の時にあったことは注意。(山川の教科書では、綱吉の貨幣改鋳の流れで記されているので、勘違いしないように。)

 「かぶき者」というのは、いわゆるアウトローである(南北朝時代=ばさら←→近世初期=かぶき者)。
 当時、旗本奴と町奴と呼ばれた金持ちのボンボンのアウトローグループの抗争が激化していた。この取り締まりを強化したのである。具体的な話は、エピソードとしてはおもしろいが、受験では超難問であり、出来なくてよい。そしてこの人の飼い犬を殺して、食うことも平気であった「かぶき者」たちを一掃するのに絶大な効果をあげたのが、5代綱吉の生類憐みの令だった。  

2 5代徳川綱吉元禄時代
 
綱吉のおかげで、君らは学校で子犬を見ても鍋を用意しないようになった。彼はこの生類憐みの令のために暴君か暗君のように言われているが、ぼくはもっと高く評価されてよいと考えている。エピソード「犬公方徳川綱吉の再評価」へ
 彼の時代は、文治政治が開花し、政治の安定と経済・文化の発展が見られ、年号にちなんで元禄時代と呼ばれる。
 キーワードと内容は次のとおり。
(1)「出自=4代家綱の子ではない
 4代家綱に継嗣がいなかったため、上州館林藩主から将軍となった。はじめは将軍職就任に尽力した堀田正俊が大老として実権を握ったが、正俊暗殺後は、側用人柳沢吉保を重用した。(側用人政治)
(2)「武家諸法度天和令忠孝・礼儀を強調」
 従来の「弓馬の道」にかわり、「忠孝」や「礼儀」が優先するものとした。
(3)「文教政策(儒教政治)湯島聖堂聖堂学問所・初代大学頭林信篤
 林羅山が上野忍ケ岡に設けていた孔子廟と私塾を、湯島に移して、湯島聖堂と学問所をつくり、学問所の初代大学頭林信篤をあてた。(混乱する受験生が多いが、「孔子廟→湯島聖堂」、「孔子廟の敷地内にあった林家の私塾→聖堂学問所」と考えると分かりやすい。)これを官立の昌平坂学問所にしたのは寛政の改革の時の松平定信(86頁)である。
(4)「極端な動物愛護令生類憐みの令『犬公方』
 1685年以降に出された一連の法令の総称である。
綱吉が死んだ途端に廃止になった。
(5)「喪中・忌引服忌令
 今の学校でも親族の死去にともなう忌引がある。それを定めたと考えれば良い。
※この生類憐みの令と服忌令で、4代家綱のかぶき者の取り締まり強化から始まった「戦国時代の風潮の完全否定」が完成したと言える。
(6)「貨幣改鋳元禄小判
 
金銀産出量の減少と綱吉の放漫財政の結果、財政難となった幕府が、勘定吟味役(のち勘定奉行)荻原重秀の建議に従い貨幣改鋳をしたことは頻出するが、次の新井白石の項でまとめて覚える。
(7)「寺院造営=護国寺、護持院」(やや難問)
 綱吉が儒教だけでなく、仏教も厚く保護したことは知っておかなくてはならない。綱吉の母桂昌院の影響が強く、このことや護持院の隆光まで出題した大学もあったが、これは無理して覚えなくてよい。
(8)学問の奨励
歌学方北村季吟」と「天文方渋川春海安井算哲)」
 教科書では元禄文化で出ているが、綱吉治世下のこととして覚えたい。北村季吟には「源氏物語湖月抄」「枕草子春曙抄」がある。
 渋川春海(安井算哲)は、「従来の宣明暦に誤差がでたので、元の授時暦をもとに貞享暦を作成」した。
(9)そのほか
「朝廷との関係改善=禁裏御料を加増」
「庶民への文治政治の推進=親孝行者を表彰」
「赤穂事件(1702)」
 殿(浅野長矩)の御乱心のおかげで家臣が大迷惑を被って、挙げ句の果てに地元では名君の誉れ高く、農民たちから慕われていた吉良上野介を惨殺した赤穂事件がおこったのも綱吉の時だった。

3 正徳の政治6代徳川家宣、7代徳川家
 受験に出題される人物bP(と言われている)の新井白石正徳の政治について。この人がなぜ出題頻度bPかと言うと、何でもやってるからである。白石は6代家宣と7代家継の時の朱子学者(侍講)。側用人の間部詮房も重要。
(1)「生類憐み令廃止」
(2) 朝幕関係の融和
  @閑院宮家創設
  A家継と皇女の婚約
  ここでしっかり考えたいのは、なぜ白石が朝廷に接近しようとしたかである
。短命や幼少の将軍が続く中、将軍個人ではなく将軍職そのものに権威を持たせるために、朝廷権威を利用しようとしたのである。
(3)「対朝鮮関係通信使の待遇簡素化と国書の表記改訂」
  国書の表記については、「日本国大君」を「日本国王」に改めさせた。(8代吉宗以降、「大君」に戻している。)
(4)そして大物貨幣改鋳!
  「新井白石正徳の治で、元禄小判を改めもとの慶長小判と同質の正徳小判を鋳造した」という文章を丸暗記する!
 あわせてどの教科書にも載っている「金貨成分比の推移」の表で、慶長小判元禄小判正徳小判にチェックを入れて、確認すること。特に元禄小判の改鋳の建議者が勘定吟味役(のち勘定奉行)の荻原重秀であったことは重要(65頁)。しかし、この貨幣改鋳は、経済の実情を無視したものであり、かえって混乱を招いた。
 荻原重秀が出目という差益を狙って元禄小判を鋳造した時は、確かにインフレとなった。(エピソード「荻原重秀の貨幣論」へ)しかし、白石の改革のころには経済の発達により、貨幣の流通量と物資のバランスがマッチするようになっていた。それを無視した貨幣量の削減は当然デフレを招き、深刻な流通危機をもたらすこととなった。
 そのため、次の8代徳川吉宗の享保の改革でも当初は、正徳小判と同質の享保小判を鋳造するなど正徳の政治のデフレ政策を進め、物価水準を抑制に努めた。しかし1736年には、享保小判より金の含有量も量目(重さ)も落とした元文小判を鋳造している(元文小判の鋳造については、次の「経済の発展」で説明)
(5)「鎖国・貿易関係長崎新令」
  長崎新令は、6文字という字数指定をされた時にために海舶互市新例という語も覚える。指定がなければ、長崎新令、正徳新令で構わないが、)という字が違うことは注意。
  長崎新令の目的
は、平成14年度の愛媛県高校入試の問題だった!「金銀の海外流出を防止するため」である。金銀」であって金だけでは×
  史料集にある史料では銀高で制限されているため、素直に読めば「金の流出?」と思うかもしれない。実際には、銀の大量流出を防ぐために、国際レートより銀高にしたレート(金に代えると損をする交換比率)で、銀を金に交換させて持ち出させていた。
(6)著書
  教科書では元禄文化だが、この機会に覚えたい。「読史余論江戸幕府の成立を正当化した歴史書」は史料もでる(『別館』史料編参照)。「自叙伝折たく柴の記」。「地理=屋久島に潜入したイタリア人宣教師シドッチを尋問してまとめた=西洋紀聞采覧異言」。この「西洋紀聞」と福沢諭吉の「西洋事情」の正誤問題がある。「古史通」と「藩翰譜」はあまりでない。

(4)諸藩の文治政治
 諸藩の文治政治は、基本的に一問一答である。「何藩藩主登用した学者教育機関等」をセットで覚えたい。
@
岡山藩池田光政熊沢蕃山(陽明学)花畠教場(熊沢蕃山の私塾)+閑谷学校郷学(庶民のための学校)
A会津藩=保科正之+山崎闇斎(朱子学)
B水戸藩徳川光圀朱舜水(明から亡命)+『大日本史』の編纂(彰考館:江戸)
C加賀藩=前田綱紀+木下順庵(新井白石の師)

※ 岡山藩の花畠教場については長い間、岡山藩の藩学と考えられてきた。事実、2010年度使用の山川の『詳説 日本史』までは、P.180の脚注やP.219の一覧表に「岡山藩の藩学」として記述されている。
 しかし最近、花畠教場は岡山藩の公的な学校ではなかったことが明らかとなり、新しく発行された教科書では、「花畠教場は熊沢蕃山の私塾」と記されている。

(2005.9.1更新)
(2006.10.29 加筆)

(2012.5.29 修正・加筆)
(2017.3.12 加筆)
(2019.9.1 福島正則の改易理由が誤っていたのを訂正しました)
(2020.2.9 長崎新令の解説に史料に関する記述を加筆しました)

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