『近世編5 経済の発展』

【2】 経済の発展 (P.75〜80)

1 農業 
(1)農業は、江戸初期から享保の改革のころ(18世紀)に耕地面積が約倍になったことからスタート。町人請負新田という言葉は頻出。
(2)金肥干鰯油粕〆粕)は中世の刈敷・草木灰との正誤問題。(漁業の項参照)
(3)商品作物の四木)と三草紅花)は、すべて覚えないと意味がない。特に紅花と藍は産地(出羽の紅花、阿波の藍)もセット。「紅花、藍→染料」「桑→養蚕」「楮→和紙」も知っておかなければならない。
(4)農具は絵を見て、名前と用途を答えられるようにすること。「深耕用備中鍬」「脱穀千歯扱」「選別用(粒を揃える)→千石どおし」「選別用(もみ殻と分ける)→唐箕」という具合に。自分で絵を書くと覚えます
(5)農書関係は、難とくくられたもの以外はすべて出る。特に農業全書は明の徐光啓の『農政全書』の影響を受けてはいるが、宮崎安貞の見聞をもとにしており、丸写しではないことまで私大の正誤問題で出たことがある。
 大蔵永常では、『広益国産考』→商品作物の奨励。『農具便利論』は字を見たら分かるでしょう。なお、宮崎安貞は元禄期、大蔵永常は化政期の人である。センター試験で判断のポイントとなった。
 田中丘隅の『民間省要』は8代吉宗に献上され、彼は代官に抜擢された。
(6)灌漑施設。トンネルをつくって通した箱根用水と、利根川の水を利用した見沼代用水は一問一答。特産品は出題されるとしたら手工業(76頁)と合わせて。
 なお、江戸時代の農業関係は、テーマ史「農業史」も参照してください。

2 漁業
 網漁である上方漁法が発達した。「九十九里浜地引(曳)網干鰯(金肥)がセット。俵物は田沼意次(86頁)ででる。要は蝦夷地でとれる高級中華料理の食材を俵につめて、長崎から中国へ向けて輸出しようとした。ちなみに「いりこ」とは干したなまこのことであって、乾燥させた小魚ではない(中国に売れんやろ)。
 また、蝦夷地でとれるにしんを絞った〆粕は、高級肥料として用いられた。

3 製塩業
  塩は室町の産業で説明した通り。潮の干満を利用した入浜式塩田となった。

 林業・製紙業
 産地と材木(木曽=檜⇔秋田・吉野=杉)のセット。(でも最近センターででたから、もうでないか)製紙も室町で説明した通り。地名と作品名をおさえること。

5 鉱工業
 主な鉱山は幕府の直営。例外だけ押さえる。特に伊予の別子銅山が住友の民営であったことは、できなければ愛媛県人の意味がない。たたら精錬は「もののけ姫」でやっていた。

6 手工業
(1)形態の変化は、重要
 農村家内工業→問屋制家内工業→工場制手工業(マニュファクチュア)である。特に問屋制家内工業については、記述(「農村が、都市の問屋商人から資金や原料の前貸しを得て生産を行う制度」もしくは、「問屋商人が、農村に原材料や道具を貸し付け、賃金を払って製品を受け取る制度」)できるようにしておくこと。文章は覚えやすい方で可。
(2)特産品
 醸造のしょう油は関東(野田・銚子)にも関西(紀伊・播磨)にもあるが、関西は酒が一番のポイント。あとは教科書で一つ一つ覚えるしかないな。

7 交通・通信
(1)陸上交通は、「五街道とは何か」にかかっている。中国街道や北国街道は脇街道(往還)であって、五街道ではない。略図を示しているが、この図がすべてと言ってもよい。東海道五十三次という言葉は有名だが、中山道が67と最も宿駅(宿場)は多い。宿駅には大名が泊まる本陣などの宿が置かれる一方で、伝馬役や継飛脚(幕府が使用する公用の飛脚)の差配(手配)をする問屋場が設けられた。関所のポイントは「中世の関所は関銭(経済)目的、近世の関所は治安目的」である。具体例の中でも東海道の箱根・新居は頻出。
(2)海上交通も図がすべて。江戸・大坂間の航路を南海路といい、ここに菱垣廻船樽廻船が就航した。樽廻船の語源は樽詰めにした「酒」を運んだことにある。「しょう油やみそ」という正誤問題があったが、基本的に物資は大坂から江戸へ運ばれたこと。そして酒は関西で造られていた(76頁の特産品)ことを考えるとわかる。
 樽廻船は、そもそも酒専用でスタートしたが、オプションとして他の荷物も安価で請け負うようになり、菱垣廻船と争いを繰り広げた。しかし樽廻船のほうが荷役(積み込みや荷下ろし)が速く、次第に菱垣廻船は圧迫されていった。なお、江戸十組問屋(後述)はその菱垣廻船を差配(ひいき)したことも、正誤問題で問われている。

 これに対して酒田など日本海沿岸の港をでて、津軽海峡経由で江戸へ入るルートを東廻り海運(航路)。関門海峡から瀬戸内海を経て大坂へ入るルートを西廻り海運(航路)といい、ともに17世紀後半に河村瑞賢によって開かれた(いろな荷物を西廻り(1672=イロンナニ)。東廻りは1年前の1671年)。
 河村瑞賢は盆の時に川に流される供養の「なす」や「きゅうり」(あの足をつけて動物に見立てたやつ)を川下で拾って漬け物にして売ったというベンチャービジネスの旗手。材木商としても受験にでることがある。かつて西廻り海運のルートを「鹿児島沖から土佐沖・紀伊水道を経て大坂」という正誤問題があった。もちろん×。ルートはイメージしておこう。また先述の樽廻船などは西廻り海運上を走っていないよ。
 さらに18世紀末頃から、大坂を拠点として西廻り海運で営業した北前船や、主に南海路で営業した尾張発祥の内海船が活躍するようになった。ぼくが「就航した」ではなく「営業した」と書いたのは、北前船と内海船は買積船方式であったためである。菱垣廻船・樽廻船は積み荷の運賃を得る運送業者であったのに対して、北前船と内海船は、各港で商品を売買しながら移動する、いわば「動く総合商社」であった。この北前船で活躍した代表的な人物が高田屋嘉兵衛(鎖国の崩壊過程。P90参照)である。

8 商品の流通
 商業について。蔵物納屋物蔵元掛屋札差の違いを正確に覚える。
 キーワードは「年貢蔵物自主流通納屋物」「委託販売蔵元代金の出納掛屋⇔旗本・御家人の給米の換金札差」である。実際には、蔵元と掛屋は兼任していることが多いが、受験では別々に出る。株仲間運上冥加を納めて公認された商工業者の同業組合であるが、天保の改革の「株仲間解散令」での出題も多い。運上(営業税)と冥加(献金)の区別はほとんど問われないし、実際意味がない。具体的には「江戸→荷受問屋→十組問屋」「大坂→積み荷問屋→二十四組問屋」でO.K.
 71頁に流通関係すべてを図示してあるので、利用してください。
 また、専門市として、「魚市=雑喉場(ざこば)(大坂)ー日本橋(江戸)」、「青物市=天満(大坂)ー神田(江戸)」、「米市堂島(大坂)ー小網町(江戸)」が聞かれることもある。

9 貨幣制度
 銀貨を中心におさえる。普通、君たちが使っているお金は「1万円」とか「100円」とか、価値を明確に示してある。これを計数貨幣といい、金貨と銭貨がこれにあたる。金貨は一枚一両で、4進法(1両=4分=16朱)である。(僕が入試の時、東京の某私立大学で出題されて、できなかったので覚えている。)銭は具体的には寛永通宝しかでない。一枚一文である。
 それに対して銀貨は一枚一枚秤で量って、重さによって判断する秤量貨幣である。だから教科書の写真を見ても、丁銀豆板銀など形がいびつでしょう。そして江戸は金貨を中心に流通(金遣い)しており、大坂(上方)は銀貨が流通(銀遣い)していた。銭は全国共通。つまり、金貨と銀貨は現在の円とドルのような関係であった。今でも銀行がドルと円をその時々の相場で交換してくれる。当時も一緒。この外国為替を扱うような大銀行を本両替という。(その証拠に学校の帰りに銀行の玄関を見てごらん。ちゃんと両替商という看板がかかっているから)それに対して外国為替を扱わない信用金庫のような中小銀行を銭両替といった。
 金・銀・銭の交換レートは17世紀のはじめ(1609年)に幕府が、金1両=銀50匁=銭4貫文としたが、「天下の台所」とよばれ江戸へ物資を送り込む大坂の方が、当然経済力が強く、現実には大坂の本両替の代表(十人両替)が、毎日交換レートを決める変動相場制であった。なお、金貨・銀貨・銭貨はそれぞれ金座・銀座・銭座で作られている。銅座ではない。銅座は田沼の専売の座(86頁参照)。藩内でのみ通用した藩札は、幕末にはほとんどの藩が発行していた。 

 <貨幣改鋳のポイントと発展的な内容>

 
 
 この表の中で絶対におさえておかなければならないのは、
〇近世編4「文治主義の展開」で述べた「新井白石正徳の治で、元禄小判を改めもとの慶長小判と同質の正徳小判を鋳造した」
〇近代編前期1「開国とその影響」で述べる「金銀比価の相違のため、大量の金が国外へ流出した。これに対抗するために金の量を抑えた万延小判をつくった
である。慶長小判元禄小判正徳小判、そして最後の万延小判は、文章や表の空欄補充であれ、正誤問題であれ確実にできなければならない。

 そのうえで発展的なものを一つ。8代将軍徳川吉宗の時に鋳造された元文小判である。
 新井白石によって正徳小判が鋳造された2年後の1716年に、吉宗は将軍となった。吉宗は将軍職就任と同時に、貨幣の改鋳を行ったのである。その方針は、享保小判が正徳小判と同質、むしろ少しとはいえ含有率が上がっていることからも分かるように、正徳の政治を引き継いでデフレ政策を進め、物価を抑えるものであった。あわせて人件費を含めた諸経費を削減して、支出を抑制しようとした。足高の制はその例である。
 その一方で、吉宗が年貢米収入の増加をはかったことはよく知られるとおりである。その例が「検見法を改めて定免法を採用」したことである。
 しかし、デフレ政策の中での年貢米収入の増加により、市場に持ち込まれる米の過剰供給をもたらし、米価だけが他の物価に比べて低迷する「米価安の諸色高」という状況となった窓 『キーワード 三大改革』参照)。 
 そこで、1730年に堂島の米市場を公認して、米価を引き上げようとした。しかし、享保の飢饉で米価が急騰して、吉宗に命じられて米価の引き上げに協力していた高間伝兵衛が打ちこわしにあうような状況の時以外は、効果はなかった。
 そこで、吉宗はデフレ政策を転換して、貨幣流通量を増して、経済活動を活発化させて物価全体を引き上げることで、米価を上昇させようとした。そのために行われたのが元文小判への切り替えであった
 表を見て分かるように、元文小判は享保小判に比べて、量目(重さ)も金の含有量も少ない。荻原重秀の元禄小判よりも小判1枚あたりの金の量は少なくなっている。
 しかし、元禄小判への改鋳との大きな違いは、増補の割合の差である。増補とは旧貨幣と新貨幣との交換率である。元禄小判は増補は1%であった。つまり、慶長小判100枚が元禄小判101枚と交換された。元禄小判への改鋳は、教科書にも書かれているように、差益(出目)を狙ったものであった。
 それに対して元文小判の増補は65%。享保小判100枚は元文小判165枚に交換されたのである。元文小判への改鋳は、差益収得を犠牲にして、新貨の流通を促進するという明確な方針のもとに行われたことが分かる。
 当時は、正徳の政治から続くデフレ政策のために金融が逼塞していた。その状況下で思われた元文の改鋳によるマネーサプライ(通貨供給量)の増加は、「干天の慈雨」のごとく、経済を潤すこととなったと考えられる。日本史上初の「事前に意図した貨幣数量調節」であったといえる。
 元文の改鋳により、直後には当然、物価急騰となった。しかし、増発貨幣は経済の活発化による市場経済の発展によって吸収され、むしろ物価の低下を帰結したという評価もなされている。吉宗が望んでいた米価の安定についても、元文の改鋳の結果、米価はほぼ一石一両で推移するようになり安定した。そして、より徹底した年貢増徴を進めた結果、幕府財政も立ち直りを見せるようになった。 
 
 先に書いたとおり、「江戸は金遣い、上方は銀遣い」であり、幕府は、1609年に「金1両=銀50匁」という公定レートを設定し、さらに1700(元禄13)年には「金1両=60匁」とした。しかし、現実には「銀高金安」の変動相場であり、このことも江戸の物価高の原因となっていた。
 元文の改鋳により、金貨の含有純金量が旧金貨の約半分と大幅に減少したことから、それまで小判1両=銀58.50匁であった交換レートは、改鋳直後には小判1両=銀49.20匁となり、金貨が銀貨に対して急落した。しかし、改鋳からわずか5年後の寛保元(1741)年には、幕府の強力な介入もあり、小判1両=銀60.70匁と、公定レートまで回復した。


10 三都について 

 江戸は、18世紀ですでに100万都市であり、その半分が武家人口であった。地下には神田川から水をひいた神田用水などの上水道が、暗渠でめぐらされていた。(図表を参照)
 大坂が「天下の台所」と呼ばれたことは、中学校の教科書レベル。それでも18世紀で人口約35万人だから、いかに江戸が大都市であったかがわかる。
 京都は、宗教・工芸・文化都市として17世紀には約40万人の人口があった。

11 江戸時代の豪商
 豪商について。紀伊国屋文左衛門はみかんの伝説で有名だが、あの話は嘘。でも吉原を借り切ったなどの話は本当。三越は三井高利の越後屋呉服店からきている、三井財閥発祥。「現金掛け値なし」がキーワード。鴻池屋は今でもあるよ、三和銀行。
 なお、三井については「本両替は全て大坂に本店があった」という正誤問題の反例となる。三井は江戸本店である。


P.80は、流通関係を図でまとめたものである。これを白紙に再現できたら、完璧だと言える。

(2006.5.19更新)
(2015.8.15ページ番号を修正しました。)
(2019.6.22 樽廻船の記述を修正・加筆しました。)
(2020.2.9 宮崎安貞は元禄期、大蔵永常は化政期を加筆しました。)
(2020.2.9 〆粕は、高級肥料として用いられたを加筆しました。)
(2020.2.9 醸造の表現を修正しました。)
(2020.2.9 北前船と内海船の解説に加筆しました。)

(2021.5.30 貨幣改鋳のポイントと発展的な内容を作成しました。)

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