『歴史の本質をとらえる=文治政治の展開』


 2017年3月13日付けで、通史編の「近世編4 文治主義の展開」に加筆した。理由は、偶然、ネット上で「受験日本史の合格の秘訣」をうたったブログを見つけたことにある。

 
17世紀の「かぶき者」の取り締まり。本当に覚えないといけないの?受験日本史で。

というテーマが立てられ、

 
覚える必要などない。こんな難問は仮に出題されたとしても、同じものは一度出されたら10年は出ない。それができなくても、他の基本的なことを確実に覚えておけば十分合格できる。それを「こんなこともわからないのか」という予備校教師などは、受験生を脅して金儲けをしているのだ。騙されるな

という内容が書かれていた。
 教科書にも掲載されていないような難問など、過去に出題されたとしても覚えなくて良いというのは、ぼくも賛成である。
 しかし、4代将軍家綱による「かぶき者の取り締まり強化」も枝葉の難問で、覚える必要はないというのは、ぼくには歴史の本質を見失っているように思える。

 山川の『詳説日本史B』のP.198には、家綱の文治政治のスタートとして、

 
平和が続く中で重要な政治課題となったのは,戦乱を待望する牢人や,秩序におさまらない「かぶき者」の対策であった。まず1651(慶安4)年7月に兵学者由井(比)正雪の乱(慶安の変)がおこると,幕府は大名の末期養子の禁止を緩和し,牢人の増加を防ぐ一方,江戸に住む牢人とともにかぶき者の取締りを強化した。

と書かれている。「かぶき者対策」は家綱の時代の重要な政治課題であったことをうかがわせている。そして、P.200には、綱吉の政策として

 
1685(貞享2)年から20年余りにわたり生類憐みの令を出して,生類すべての殺生を禁じた。この法によって庶民は迷惑をこうむったが,とくに犬を大切に扱ったことから,野犬が横行する殺伐とした状態は消えた。また,神道の影響から服忌令を出し,死や血を忌みきらう風潮をつくり出した。こうして,戦国時代以来の武力によって相手を殺傷することで上昇をはかる価値観はかぶき者ともども完全に否定された。武力にかわって重視されたのが,身分格式であり,儀礼の知識であり,役人としての事務能力であった。

 本編でも述べたが、江戸時代初期は追腹(主君が死去した場合、後を追って切腹をすること)が美徳とされ、庶民もそれを期待していた。「どこそこの殿様のところは追腹を切る者が何人いた」「今度のどこやら様のところは何人の忠義の者がいるのだろう」などとはやしたて、競い合わせていた。武士やかぶき者だけでなく、一般庶民にとっても命が軽く見られていたのである。藩によっては鼻削ぎ・耳削ぎなどといった残虐刑罰も残っており、幕府はこれも禁止している。

 家綱が殉死の禁止を命じた5年後(1668年)には、それに反したとして、宇都宮藩を処罰(追腹一件)している。
 宇都宮藩の藩主奥平忠昌(家康の孫)が、病死した。忠昌の長男奥平昌能は、忠昌の寵臣であった杉浦右衛門兵衛に対して「いまだ生きているのか」と詰問した。これを受けて杉浦はただちに切腹した。杉浦も殉死の禁止令のことは知っていたが、主筋に殉死を迫られて、それに応じたのであった。
 幕府は、奥平昌能・杉浦右衛門兵衛の行為を、ともに殉死の禁止令に対する挑戦行為と位置付け、奥平家に対し2万石を減封して出羽山形藩9万石への転封に処し、殉死者杉浦の相続者を斬罪に処するなど厳しい態度で臨んだ。
 切腹させられた杉浦の子どもが斬罪になったのに、させた奥平昌能は2万石の厳封ですまされたのは不公平な気がするが、奥平昌能は家康の曾孫だから、これでも幕府はがんばった方なのだろう。これにより、殉死者の数は激減したといわれている。

 殉死の禁止について教科書には

 
1663(寛文3)年,成人した家綱は代がわりの武家諸法度を発布し,あわせて 殉死の禁止を命じ,主人の死後は殉死することなく,跡継ぎの新しい主人に奉公することを義務づけた

と書かれている。武家諸法度に加えられたとは書かれていない。殉死の禁止令は、家綱の武家諸法度の発布にともない、口頭で伝達されていた命令であった。なぜ、成文法化しなかったのか。

 それは幕閣にも殉死を美風とみる意見が存在したからである。

 家綱たちは、幕府内部の「かぶき者的風潮」とも戦っていたのである。

 殉死の禁止は、5代綱吉の武家諸法度天和令に「附、殉死の儀、強(いよいよ)制禁せしむる事」と付記され、明文化された。

 受験生は、文治政治の取組は、一つ一つ覚えると思う。その上で、それらはすべてつながりを持っているのだという認識をしてほしい。

 
家綱・綱吉の2代をかけた、「末期養子の禁の緩和」と合わせて出された「かぶき者の取り締まりの強化(1651)」→「殉死禁止令(1663)」→(旗本奴水野成之(十郎左衛門)の切腹(1664))→「服忌令(1684)」・「生類憐みの令(1685)」という取組によって、幕府は、戦国時代以来の武力によって相手を殺傷することで上昇をはかる価値観を、かぶき者ともども完全に否定したのであった。


(2017.3.13)

近世編4 文治主義の展開
窓・発展目次へ戻る
トップページへ戻る