エピソード 『怪談? 振袖火事』

  江戸の町の一人の少女(17歳)が、偶然見かけた美少年に一目惚れ。寝ても覚めてもその美少年のことが忘れられず、彼が着ていた服と同じ模様の振袖を作らせました。その振袖を抱いては、彼のことを思う日々でしたが、恋の病からか、はかなく死んでしまいました。両親は憐れんで娘の棺にその振袖を着せてやりました。
 当時こういう棺に掛けられた服などは、棺が持ち込まれた寺で働く男たちがもらっていいことになっていました。一説には件の美少年、この寺の寺小姓だとも。この振袖は男たちによって売られ、別の娘(これも17歳)の物になりました。ところがこの娘も、しばらくの後に亡くなり、振袖はまた棺にかけられて寺に持ち込まれました。寺の男たちもびっくりしましたが、まあ、そんなこともあるだろうと、またそれを売り、振袖はこれまた17歳の娘の手に渡りました。
 ところが、この娘もほどなく死んでしまい(袖を通した途端に死んだという説もある)、振袖はまたまた棺に掛けられて寺に運び込まれてきたのです。
 ここに至ってさすがに寺の男たちも気味悪がり、住職に相談。死んだ娘たちの親も呼ばれて、この振袖を寺で供養することになりました。この寺が本妙寺です。住職が読経しながら火中に振袖を投じます。ところが、折しも強い風が吹き、振袖は火がついたまま空に舞い上がり、本堂の屋根に落ちました。火は屋根に燃え移り、消し止める間もなく次々と延焼、翌日には、江戸城本丸天守閣まで類焼し、何と江戸市街の55%を焼失しました。亡くなった人は10万人以上。振袖火事と呼ばれます。コワ〜

 とまあ、ここまでが一般に言われている明暦の大火=振袖火事の話だが、これは後世の作り話である。この事件にはおかしな点が多々ある。
 本来、火元は厳罰が科せられる。事実別の火事で火元となった寺は、50年間再建が許されなかった。ところが、火元となったとされる本妙寺は、「お咎めなし」である。しかもその後、出世コースに乗っている。これでは筋が通らない。しかも当日(明暦3年正月18日)は朝から強風が吹いていて、そんな日に故意に火を炊くようなまねをするとは思えない。そこで様々な説が言われている。

 その一つが、老中松平信綱(知恵伊豆→島原の乱鎮圧で登場)による江戸の都市整備のための放火説。しかし、江戸城本丸まで焼いて将軍(4代徳川家綱)を危険な目に合わせてまで、都市再開発のために放火するというのは、説得力がないし、大体、当時の幕府権力を考えれば、火なんかかけなくても、強制的に立ち退かすことは出来たはずだ。

 そこで有力になっているのが、本妙寺の隣にあった老中阿部忠秋邸からの失火説である。火事の火元には厳罰主義で臨んでいた幕府の老中が火元とあっては、幕府権威の失墜と非難は避けられない。そこで、火事と同時に阿部忠秋は、火元を隣の本妙寺に押しつけたというものである。事実、火事後阿部家からは供養代として、毎年本妙寺に寄付(実に1923年の関東大震災まで毎年!)が行われている。供養というなら、この明暦の大火の犠牲者の供養のために建立された回向院があるにも関わらずである。
 しかし、どうも阿部忠秋という人は、自己保身のために罪を他に押しつけるような卑劣な人物ではなく、人望の厚い人格者であったらしい。
 となると...考えられることは、阿部忠秋邸が火元(雨戸を閉めようとしていた女中が灯を落としたという説もある)であったことは確かであるが、江戸の動揺を防ぎ、幕府の威信を守るため、幕府が本妙寺に事情を説明して、火元の汚名をかぶってもらったという説である。なるほどね...
 でも、本当のところは分からないけどね。

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