「日本語お上手ですね。」
日本語を解する外国人に対して、日本人がよく口にする言葉である。他意はなく、ほめ言葉として使っている。しかしこの前提には、日本語は難しく外国人には容易に理解できないという意識がある。
同じように、外国人に「私は日本史を研究しています。」と言われると、どこか「日本人でもないものが何を言う。」という感情を持つのではないか。
しかし、それを言うなら日本人の西洋史研究者や中国史研究者も成り立たないことになり、いかにこれが誤った認識であるかは、少し考えれば分かる。
そしてそのことを痛切に感じさせてくれたのが、ベアトリス・ボダルト=ベイリー(Beatruce
M. Bodart-Bailey)の 『ケンペルと徳川綱吉』 (1994
中公新書:中直一訳)であった。
本編でも述べたが、ぼくは授業で生徒たちに「君らが学校に迷い込んだ子犬を見て「きゃ〜、かわいい」とは言っても、「きゃ〜、おいしそう。」と言って鍋を用意しないようになったのは、綱吉のおかげだ。」と話してきた。綱吉は生類憐みの令のために暴君か暗君のように言われているが、ぼくはもっと高く評価されるべきだと考えている。単純に考えても、もし彼の時代が暴君の恣意の彩られた暗黒の時代だったのなら、元禄時代にあれほどの経済・文化の発展が見られたはずがない。
よく引き合いに出される生類憐みの令の処罰について、大手出版社の受験参考書にも「とくに犬を殺傷したものは厳罰に処すという悪法と化し、民衆生活に重大な悪影響をおよぼした。」と書かれているが、最近では町民階級に対してはほとんど発動されなかったという研究もある。(逆に武士階級に対しては厳罰に処せられた事例も見られるが、これは「犬を粗末にした」からではなく、「反逆罪」という見地からであった。)
そもそも生類憐みの令が「厳罰を伴う過酷な法律だった」という主張の根拠とされる文献自体が、市井の出来事をおもしろおかしく書き立てる浪人作家によるものであり、史実としての信頼度が高い資料には「生類憐れみの令による処罰」の記載はほとんど発見できない。綱吉の側近中の側近であった柳沢吉保の日記にも、「生類憐みの令」に関する記述は全くと言っていいほど見あたらず、このことからも、この法令が当時の為政者にとって、最重要課題ではなかったことをうかがわせる。
これらのことを踏まえた上で、この『ケンペルと徳川綱吉』を読むと、目から鱗がボロボロ落ちる感がある。筆者ベイリーは、生類憐みの令の歴史的意義を極めて高く評価する立場であるが、その主張を要約すると次のようになる。
1.「生類憐みの令」は動物に適用された法令ではなく、社会的弱者や貧者の保護こそが目的であり、近代の社会福祉立法の先駆であった。
根拠:
@親が子を育てる財力がない場合は、親に代わって役人が子供たちの世話をしなければならないという義務をつくった。
A捨て子や子殺しを予防するため、妊婦と7歳以下の子供の氏名を登録させた。乞食や流民についても役人がこれを保護する義務を規定した。
B牢屋の囚人の扱いも改善し、月に5回は風呂に入らせ、牢内の換気もよくさせた。
もっとも、これだけなら高校生が使っている日本史の史料集にも、「生類憐みの令」の内容として、
「一、捨子これ有り候ハゝ、早速届くるに及ばず。其所の者いたハリ置き、直ニ養候か、又ハ望の者これ有り候ハゝ、遣すべく候。急度付届に及ばず候事。」
とあり、今更驚くほどのことではない。「おー!」と声が出るのはここからである。
2.生類憐みの令が相次いで出されたのは、法令を骨抜きにしようとする堕落した重臣と綱吉との権力闘争であった。
論旨:
@本来は鷹狩り用に大名家で飼われていた犬が逃げ出し、野犬化することに対する措置であった。江戸のような百万都市では野犬の放置は社会問題となるため、綱吉は犬とその飼い主を登録させようとした。この規則自体が世界史上でも先駆的、画期的なものであった。ニューヨーク州が犬の登録を義務づけたのは1894年であり、それより200年以上も早い。
Aただしこの規則は、実行するために大変な労力が必要であった。当然、面倒くさがって役人は手を抜く。例えば老中は、「自分の犬が逃げ出して見つからない場合は、他の犬を連れてきて代わりに登録してもよい。」という本末転倒した解釈をつけた。
B
これに対して綱吉は、一時的とはいえ老中を罷免するという制裁処分を科し、同時に本来老中の義務であったものを側用人の職務に移し替えるという方策にでた。
Cしかし、抵抗する重臣たちは次第に勝手な細則をつけて「生類憐みの令」を異様なものにつくりあげていった。後世、綱吉が愚かな将軍だと言われていったのにはこの権力闘争の結果である。
ぼくにとってはこの2が最もインパクトが強かったのだが、しかしそれではなぜ「犬」をメインに据えたのかという疑問が残る。通説では綱吉も母親桂昌院も戌年生まれであり、「綱吉に世継ぎの出来ないのは前世の報いであるという護持院の隆光の教えを、彼を尊崇する桂昌院が綱吉にうったえたから」と言われている。もし、そうなら綱吉を高く評価する必要は全くない。
しかし、そもそも最初の「生類憐みの令」が出た1685年は、隆光がまだ江戸に入る前であり、この説自体が無茶苦茶怪しい。
そんな思いに対して、ベイリーは思い切った説を展開する。
3.綱吉の目的は、「犬」ですら生類として人と同格に扱うことにより、同じ人に対する武士の特権的横暴(「切り捨て御免」に代表される)を封じることにあった。(言ってみれば「犬」というのは方便であった。)
論旨:
@武士は刀を持って人民の上に立つ身分ではなく、役人として庶民に奉仕する立場であると位置づけようとした。
Aこの法令が悪法とされるのは、武士の特権を否定されることに重臣や役人が反発して、綱吉の命令を歪曲し続けた結果であった。
この3の「武士の特権」については、エピソード「じっと我慢の子であった」でも述べたように、実際には「切り捨て御免」は存在せず、的はずれのようにも思える。しかし、江戸時代初期には「かぶき者」が闊歩していたほかにも、藩によっては「耳削ぎ」や「鼻削ぎ」という肉体刑が行われており、幕府がこれを野蛮な風習として禁止したことも事実である。
江戸時代の文化人と呼べる者の記述でも、綱吉の法を悪法と評しているものは確かにある。その一方で、荻生徂徠はその著書『弁道』で、君主の在り方としての綱吉の意義を述べている。そしてケンペルも徂徠と同様に、マキャベリズムともいうべき政治を行う綱吉を『卓越した君主』と高く評価している。
「生類憐みの令」が、当時を生きた人々にとって、実際にどのようなものであったのかは分からない。しかし、勉強不足と言われれば甘んじて受けざるを得ないが、敢えて言えば、武力による覇道が幅をきかせる時代の風潮の中で、毅然と徳治主義を主張し、それを断行した君主をぼくは日本史上で他に一人しか知らない。その一人とは言うまでもなく聖徳太子である。
もちろん、綱吉と聖徳太子を同列に論ずることなどできない。しかし、方や日本史上最大の名君のように言われ、此方、日本史上最低の暗君のように評されることには、強い違和感を覚えている。
少なくとも歴史を学ぶ私たちは、先入観や風評に惑わされず、一人の人物の足跡について、客観的に判断する目を持たなくてはならない。
2005.9.1
(2005.9.4加筆)