エピソード 「言動不一致、格好つけのフィーリング−吉田兼好−」

 先日、とうとう四十路に入ってしまった。今までの誕生日で一番印象に残っているのは、インターハイ登山競技のコース下見中に迎えて、生徒がキャンプ場などでささやかに、それでも精一杯お祝いをしてくれた20歳代のものだが、誕生日がうれしかったのもそのころまでのような気がする。

 学生時代、民俗学者で文化人類学者の小松和彦先生が、「あー、明日で40歳になってしまう〜!」とわめいているのを聞いて笑ったが、この数日はまさにそういう心境であった。

 ましてや受験の古典でも出題されて有名な徒然草』の第7段にはこう書いてある。

「命長ければ辱多し。長くとも、四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。

(長く生きればその分、恥をかく回数も多くなる。長生きをしたとしても、四十歳手前で死ぬのが見た目にもよい。)

 さらにこの続きなんか、今、ブレイクしている綾小路きみまろ風に言うとこうなる。

40歳を過ぎたら、もー、自分の見た目なんか気にしてはいません。醜い自分も省みず、世間へ出ていって、何とか目立とうと張り切るのですが、この世間というのも、病院の待合室ぐらいなもの。もう陽が沈むというジジイ・ババアになって、あ〜ぁ、何とか子や孫が立派になる姿をこの目で見届けるまで生きていたいと思う。でも、そう思っているのは自分だけで、周りは迷惑なだけ。それなのにひたすら生きることばかりにしがみつき、情緒というものも分からなくなって、何とも見苦しい姿をさらすのです。」 

(即興で『徒然草』を訳しながら思ったのだが、本当に綾小路きみまろが『徒然草』を語ったら、おもしろいかもしれない。)

 しかし当の吉田兼好自身は、67歳まで生きている。(78歳とか82歳とか言う説を聞いたこともあるが)

 この7段の文章は、彼が20歳代のものらしい。ちょうどぼくが小松和彦先生を笑ったころである。40歳になった時、兼好はどう思ったのだろうか。

 大体、吉田兼好は、言ってることとやってることが、これほどかけ離れた奴は滅多にいないのではないかと思われる人物である。

 世捨て人を気取っていながら、世俗の地位や名誉にとことんこだわり、上流階級意識むき出しの差別観を持っていて、ぼくは余り好きではない。(154段など彼の意識がよく表れている)

 兼好に対しては江戸時代の国学者本居宣長が痛烈に批判している。例えば、これまた受験で有名な『徒然草』第137段

は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行方知らぬも、なほ、あはれに情深し。咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。歌の詞書にも、「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障る事ありてまからで」なども書けるは、「花を見て」と言へるに劣れる事かは。花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさる事なれど、殊にかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし」などは言ふめる。

(花は満開を、月は満月ばかりを見るものであろうか。雨が降って見ることができない時に、雲の向こうの月を恋しく思い、カーテンを閉めて春の移り変わりを見ることがなくても、それはそれで、趣があっていい。(中略)風流の分からない奴に限って、「どの枝も花が散ってしまった。もう見どころがない。」なんて言うんだ。)

を引き合いに出すと分かりやすい。本居宣長は三重県松坂の人なので、名古屋弁風に言うと(あくまで「風」です。おかしいのはすみません)

 おみゃーにゃ、どこの世界に『散った花の枝』や『雨雲に隠れて見えない月』を見て、「ア〜、いい。」なんちゅう奴がおるっちゅうんじゃ。たわけたこと言うてもうたらいかんでぎゃー。美しい花、光輝く月を見て、「あー、何ちゅう美しさや!」と素直に感動するのが自然っちゅうもんじゃにゃーか。これが古代から伝わる日本人の純粋な『清き明き心(きよきあかきこころ)ちゅうもんじゃ。おみゃーさんが言よんは、ただの格好つけに過ぎんで。

 大賛成!   (ただしこれは彼の主張をぼくなりにまとめたもので、この通り言っているわけではありません。)

 しかし、『徒然草』の中には、我が意を得たりと思うものもある。今、取り上げた第137段が受験で出題される場合、ほとんど(中略)の形で飛ばされる部分がある。そこにはこう書いてある。

万の事も、始め・終りこそをかしけれ。男女の情も、ひとへに逢ひ見るをば言ふものかは。逢はで止みにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜を独り明し、遠き雲井を思ひやり、・・・

 (世の中のことは全て、始めと終わりが趣深いのだ。男と女の逢瀬だって、ただ共に時を過ごすことばかりがすべてなのだろうか。逢うことができないまま終わってしまった恋の切なさに胸を焦がし、違えられた恋の約束に呆然としながら、長い夜を一人で明かし、愛しいあの人がいる遠い街に思いを寄せ・・・)

 ただ会っている時間、話している時間のみが恋を感じる時なのか。この投げかけに対して真っ先に思い浮かんだのは、毎年、東洋大学が主催している『現代学生百人一首』にあった、高校生の次の歌である。

 携帯はなくてもいいよ貴方待つこんな時間も大好きだから  (田 絵美 深谷第一高校 3年 埼玉県)

 何だ、吉田兼好が理想とした恋のフィーリングなんて、今の高校生にもしっかり宿っているじゃないか。

2003.7.30

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