エピソード 『鎌倉仏教とハンセン病』

  図表などでよく見る『一遍上人絵伝』の「踊念仏」(六波羅)の場面には、隅に白い布で顔を覆ったハンセン病の人々が描かれている。映画『もののけ姫』の中で石火矢を作っている人たちの"あの"姿と言ったほうが分かりやすいかも知れない。

  タタリ神を殺してしまったことで、右手にタタリを象徴するスティグマ(聖痕)が残った少年アシタカの、その右手がタタラ場のリーダーであるエボシ御前を切ろうとした時、全身を布に巻かれて横たわる、石火矢つくりの集団の長が、止めに入る。

お若い方
わたしも呪われた身ゆえ、あなたの怒りや悲しみはよく判る
判るがどうかその人を殺さないでおくれ
その人はわしらを人として扱ってくださった たった一人の人だ
わしらの病を恐れず、わしの腐った肉を洗い布を巻いてくれた

生きることはまとこに苦しく辛い
世を呪い人を呪い
それでも生きたい
どうか愚かなわしに免じて・・・

   ハンセン病は業病と言われ、罹った者は故郷を追われることになった。エボシ御前はそんな彼らを引き受け、人間として扱った。彼らに生きていく空間を与えたのである。

 実際、日本ではハンセン病に罹った人々が生きていけた場は限られていた。その一つが四国遍路であった。ハンセン病の人が四国遍路をまわる、いわゆる「死への辺土」を行っていたことは、高群逸枝の『娘巡礼記』の中でも登場する。(エピソード「女性史研究のパイオニアー高群逸枝と四国遍路ー」へ)その姿は「灰色の敗残者、死の勝利に出でいる乞食の群れ、盲鬼か幽霊かお化けの寄り合いみたいだ」と表現されている。

   ではなぜ感染力の極めて弱いハンセン病が業病とみなされ、患者は死への遍路へと旅立たなくてはならなかったのだろうか。

 その背景には仏教思想が関与している。法華経には、これを受持するものを軽笑したり、謗ったならば、「この人は現世に白癩の病を得ん」と記されている。
  愛媛県西予市三瓶町にある「姫塚」に祀られているハンセン病を患った姫が、死ぬまで石に法華経を写経していたという伝承は、このことに由来している。
    『娘巡礼記』の中にも、若い女性である高群が遍路に出ようとしているのを見て、「よか所の娘でも、病気ばかりは仕方がない。前世の罰だろう」と言ったり、18歳の時に村を追われて遍路をしている娘に対して、「業病も因縁だろかいのう」と人が言う場面がある。

  ハンセン病は、前世の悪業の報いだと考えられていた。そして奇跡か、せめて来世での救いを求めて四国遍路をする患者に施しをすることは、仏教の功徳とされた。そのため街道筋の人々は彼らを受け入れたのである。(もっとも明治になると、いわゆる「乞食遍路」と呼ばれたこれらの人々の追放が行われるようになる。高知県で、彼らの追放を強く述べた論客は『東洋大日本国国憲按』の自由党員植木枝盛であった。)

   中世社会では「触穢思想」や「仏教的業病観」の高まりから、『癩者』(ハンセン病患者)はもっとも穢れた存在として、共同体からは排除された。
   その「仏罰の極致」と見なされたハンセン病患者に、救いの道を示したのが鎌倉仏教であり、代表者の一人が
一遍である。『一遍上人絵伝』には、彼を慕って一緒に旅をする患者たちが描かれている。(しかし彼らは、他の信者とは別に、自分たちだけで輪になって食事をしている。ここからもハンセン病患者が、中世社会の最下層であったことがうかがえる。)
   一遍は、ハンセン病患者もまた
時衆(信徒)と見なし、布教の対象にしていた。そのため、一遍の没後、彼に殉じ、入水往生を遂げた患者もいた。

   ハンセン病患者に手を差し伸べたのは、新仏教の側ばかりではない。最も有名なのは、叡尊忍性の師弟であろう。
  忍性は叡尊を師として出家、亡母の13回忌に当たり癩宿17カ所から1000人を集めて食事を施し、慈善救済活動に入っていった。彼らを救うことが文殊菩薩を供養することになるというのが師叡尊の教えであったらしく、忍性は奈良に
北山十八間戸を創設する。
 そして患者たちの生活を成り立たせるため、歩けなくなった重症のハンセン病患者を背負って毎日早朝に町へ出、物乞いをさせて夕方再び背負って戻ったという逸話は有名である。
 関東に下向した後は、鎌倉
極楽寺などを拠点に布教を続け、貧窮民への施物や療病所・浴室の開設、架橋などの社会事業に大きな業績を残した。

 念のために付け加えると、忍性は決して世間でマイナーな存在ではなかった。蒙古襲来の際には、北条時宗の命に応じて祈祷を行い、大功ありとされた。朝幕の帰依も得て摂津多田院別当、東大寺大勧進職、四天王寺別当などの重職を歴任しており、当時の僧侶としては栄達を極めたとも言える。

 今(2002.12)、四国遍路を「世界遺産」に登録しようという運動がある。確かに京都や奈良のような伝統と風格に満ちた町並みがあるわけはなく、宮島のような美しい建築物があるわけでもない。人々の精神的世界を「世界の遺産」にという考え方は、ある意味で素晴らしいことかもしれない。
 しかし四国遍路は、仏教思想を巡るハンセン病患者たちの悲しい歴史も背負っている。運動はそのことを噛みしめた上でのものでなければならないと、僕は思う。

(2002.12)

追記:姫塚伝承
 ハンセン病にかかった京都の公家の姫がうつろ船(空の船)に乗せられ、海へ流された。たどりつく島々でも上陸を拒否され、船に積んであった高価な衣類を売りながら命をつないでいた。流れ着いた浜(伝承地が八幡浜市白石にある)でも、人々に追われ、姫は三瓶町鴫山にたどりついた。
 里人たちは、姫のために小屋を建て、食べ物を提供した。姫は喜び、「この地にハンセン病がおきないように」と、法華経を石に書写しながら毎日祈り、数年後に亡くなった。村人は姫の霊を慰めるため、姫が法華経を写した石を運んで積み上げ、塚を作った。

  姫塚の石の中でも保存のよいものが三瓶町の公民館に保管されている。確かにうっすら文字が見える。それが法華経の一節か否かまでは読み取れなかったが、何となく重みを感じた。

         
        (三瓶町の姫塚)               (保管されている経石)

(2006.3.26追記)

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