エピソード 『あるべきようは−偉大なる実存主義の思想家 明恵−』


 ありのままに

 2014年前半期は、この
言葉が猛威をふるった。
 金子みすゞの『私と小鳥と鈴と』の「みんなちがってみんないい」と同じ考えのようで、もちろん悪い言葉ではない。

 “Let it go, let it go And I’ll rise like the break of dawn Let it go,let it go That perfect girl is gone”

 (野澤訳:ありのままに なすがままに 夜が明けるように私は立ち上がる ありのままに なすがままに 聞き分けの良い少女はもういないわ)

 などは、映画のストーリーと照らしあわせて聞くとインパクトがある。

 しかし、この言葉がもてはやされるほどに、ぼくは少し違和感も感じるようになった。


 あるべきようは

 鎌倉時代、俗に旧仏教側といわれる華厳宗の明恵(高弁)の言葉である。

 もとは「阿留辺畿夜宇和」と書く。

 人は「あるがままに」生きるのではなく、今、どのように生きるべきなのか(あるべきようは)を常に自らに問いかけ、その答えを生きようとすべきなのだと説いた。

 これがTPOに応じて生きなさいという意味ではないことは言うまでもない。

 「現世を生きる人として、今、この時をどう生きることが正しいのかを常に模索し、探究し、その時々で正しいと信じた言動を実践すべき」だと説いていると、ぼくは解釈している。

 だからこそ、明恵(高弁)は、法然を批判した『催邪輪』の中で、「現世のことはどうであっても、後生だけ助かればいいなどと説いている経典はない」と言っているのである。

 倫理の授業を受けた人は分かると思うが、そもそもブッダの教えは、「いかに悟りに至るか」であった。ブッダは、「バラモン教のような苦行は必要ない。世の中の真理を順序よく理解していけば、煩悩から解き放たれて悟りを開くことができる。そうすれば安らぎを得ることができる。」と言ったのである。
 考えてみれば、大乗仏教が理想とする菩薩の定義(?)も「自らの悟りは後回しにしてでも、衆生を救おうとする」だから、悟りを開こうと努力することは必要なのだ。
 人々に「怖がらなくてよい。みんな極楽浄土に行くことができる」と言って、心の安らぎを与えることがイコール菩薩ではない。(そういえば、教科書に出てくる僧侶で、菩薩信仰で有名な人は律宗の叡尊と北山十八間戸の忍性であり、いずれもいわゆる旧仏教の改革者とされる人物である。)

 「今、どのように生きるべきなのかを常に自らに問いかけ」、「正しいと信じるものを選択し」、「それを自分に自信と責任を持って実践しながら生きるべき」だと言った思想家は、倫理の教科書には何人も載っている。その代表的な人物がニーチェハイデッガーサルトルである。いずれも19世紀末から20世紀を生きた実存主義の思想家だ。

 ニーチェは、「生は無意味だと知れ(永劫回帰)。それでもその生に勇気を持って飛び込んでゆけ(運命愛)。そして、より優れた自分になろうと努力しろ(権力への意志、超人)。」と言った。
 ハイデッガー
は、「死を意識することで、今を少しでも自分らしく生きようとすることができる。そうすることで限りある生が輝く(死への存在)」と説いた。
 サルトルは、「人は、自分の意志で常に人生を選択している。そして選んだものについては、自分自身のみならず、全人類に対して責任がある(人間は自由の刑に処せられている)。」と語った。

 明恵の「常に自分を見つめながら今を生きる」という思想は、彼らに似ているような気がする。

 受験にでる明恵は、「華厳の高弁、高山寺」(KKKと覚えなさいとぼくは教えている)と「催邪輪=法然批判」であろう。さほど取り上げられる人物ではないと思う。

 しかし、「あるがままに」が流行語になった今、改めて思う。

 「あるべきようは

 ニーチェたちに先立つことおよそ800年。日本には明恵という偉大な実存主義の思想家がいた。


2014.10.15

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